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其の一 邂逅

挿絵(By みてみん)



 軍船も兵も五倍以上を擁する大軍勢が、たった一人の少女によって崩れていく。

 西国随一の勢力を誇る大内(おおうち)軍にとって、それは悪夢に似た光景であった。

 大軍の士気も誇りも、瀬戸内(せとうち)の海の底に沈んでいく。


「姫様が敵将を生け捕ったぞ!」

「我らには姫様と、三島(みしま)大明神のご加護があるのじゃ!」


 三島水軍の鬨の声が、闇夜を震わした。

 その声は幾重にも重なり、潮風に乗って白波の間を渡っていく。


 日はすでに落ちていた。

 月なき曇天の下、漆黒の入江には大小の軍船が入り乱れ、無数の篝火と松明の灯が波間に揺れていた。

 船と船がぶつかり合い、波沫が上がる。

 まるでその気勢に応じるように、瀬戸内の海は白く波立った。

 船縁を打つ潮が砕け、細かな沫となって甲板へ降りかかる。


「いつの間に……我らは、こんな劣勢に……」

「たかだか十六歳の女子に、我ら大内が……」


 大内水軍の兵たちの顔色は失われ、声は震えていた。

 西国随一を誇る軍勢の面影は、もはやどこにもない。

 櫂を握る手は強張り、視線は怯えて乱れ、舟列は波間で崩れていく。


 海戦ではひとたび流れを失えば、それを取り戻すことはいかなる名将でも難しい。

 まして相手は、この海を庭のように知る三島水軍である。

 潮の癖、風の返り、暗礁の位置、波の立ち方。

 三島水軍は、その全てを知り尽くしていた。

 小早舟が闇の中から滑り出て、鉤縄が投げられる。

 敵船へ飛び移った兵たちが、ためらいなく刃を振るった。

 大内兵は次々と海へと斬り捨てられていく。

 赤い血沫が舞い、白い波沫と宙で入り混じる。


 誰もが思った。

 勝負は決した、と。

 その時である。 



「どけどけどけどけーーっ!!」


 怒声が海原を裂いた。

 両軍入り乱れる軍舟の間を縫うように、一艘の小舟が突き進んでくる。

 大船の陰から現れては隠れ、白波を跨ぐように舟首を跳ね上げる。

 後方で櫓を握るのは、二人の若い漕ぎ手。

 櫓を深く海へ突き立て、全身を軋ませながら潮を掻く。

 その強い推進力によって、小早は波頭を飛ぶように疾走する。


 その舳先には、一人の若武者が立っていた。

 槍を片手に、足を船縁へ広く踏み張る。

 波に煽られ舟が跳ねても、その身体の重心は揺るがない。

 身につけるのは極限まで軽量化された薄鎧。

 重厚な甲冑に身を固めた兵たちの中で、その軽さは見るからに異質であった。

 額に巻いた群青の鉢巻が、潮風を受けて鋭く翻る。


禰太郎(ねたろう)っ、弥右衛門(やえもん)っ。将船を見つけた。そのまま前進だ!」


 肩越しに放たれた声には、まだ少年らしい幼さが残っていた。

 十三歳の若武者――弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)

 その目は、すでに獲物を見つけた(はやぶさ)のようであった。


「よっしゃあ、(かじ)さん、まかせろぉ!」

「若様も禰太郎も、まったく無茶ばかり……!」


 禰太郎が快活に笑い、弥右衛門が半ば呆れたように言い放つ。

 二人の櫓がさらに深く海へ突き立てられ、強く速く海を掻いた。

 海面を蹴るようにして、小早は一気に加速する。

 夜気を裂くように飛来した矢を、舵之丞は鬱陶しい羽虫でも払うように、槍でそれを弾いた。

 敵の小舟とのすれ違いざま、伸びた槍先が敵兵の肩口を穿つ。

 悲鳴と共に、兵が海へ転落した。

 小早は止まらない。

 波間を縫い、船影を潜り抜け、敵の視線の死角だけを選ぶように疾走する。

 やがて、大きな将船の舷にまで辿り着く。


「やっと着いたぜ。待ってろよぉ」


 舵之丞は笑うと、槍を大きく振り上げた。

 槍刃の根元には、鋼の(かぎ)がついている。

 それを大船の縁へと食い込ませた。


「よっ」


 舵之丞はその槍を支点にして小舟から跳ね上がり、揺れる船腹に足を掛ける。

 猿のような身軽さで駆け上がると、そのまま甲板へ踊り込んだ。

 ちょうど大波が船体を持ち上げ、甲板が大きく傾く。

 舵之丞はその勢いを利用して、甲板の上で転がる。

 肩から背、背から腰へ。

 ころころと板の上を転がり、勢いが止まった瞬間には、すでに片膝を立てて鉤槍を構えていた。


「ん? なんだ、おまえ」

「このガキ、どっから乗ってきた……?」


 三島水軍の兵たちは一瞬目を疑う。

 いきなり船上に現れたのは、歴戦の猛者ではない。

 よく見ると、まだ元服すらしていないような少年である。

 戸惑いは一瞬であった。

 二人の兵が、同時に斬りかかる。

 だが次の瞬間、鉤槍の切っ先は一人の首筋へ深々と沈んでいた。

 鮮血が甲板へと飛び散る。


「な、なに……っ!」


 残る一兵が驚いたが、声は最後まで続かなかった。

 引き抜きざまに振るわれた槍の刃先が、頬から耳元までを斜めに裂いていた。


「うぎゃあぁぁっ」


 悲鳴を上げて、兵は膝をつく。

 舵之丞は容赦なくその胸を蹴り飛ばす。

 そして、槍を高々と掲げ、海風を胸いっぱいに吸い込んで叫ぶ。


周防岩国(すおういわくに)水軍提督にして、(はやぶさ)の槍使い――!」


 鉤槍の切先が、月なき夜の天を指した。


「弘中舵之丞とはオレのことだぁーー!」


 その声は潮風に乗り、船上に突き抜ける。

 三島水軍の将兵たちの視線が、一斉に少年へ集まる。


(かじ)ィ! てめぇはただの見習いだろうが!」


 怒鳴り返す声が響いた。

 舵之丞は思わずよろけて、肩をすくめる。

 声の主へ目を向けると、甲板に右膝をつき、苦痛に顔を歪めている。

 大内方の将・三浦十兵衛(みうらじゅうべえ)であった。

 左肩と右腿を深く斬られ、具足は血に染まっている。

 その首元には太刀の刃が突きつけられていた。

 今まさに、首を落とされようとしている。

 太刀を握る男は、荒々しい水軍衆の中では珍しく、どこか貴族めいた風格を漂わせる美丈夫であった。


「おい……、待てっ」


 舵之丞は声を飛ばす。

 男はちらりと視線だけを向けた。


「悪いな、若いの」


 その目には無情の余裕があった。

 男は再び十兵衛へ目を戻し、太刀を振り上げる。


(仕方ねえなぁ)


 舵之丞は小さく息を吐いた。

 次の瞬間には、駆け出している。

 槍が唸る。

 鋭い突き。

 だが男は、ひらりと身をかわす。

 同時に刃を返し、舵之丞へ斬り下ろそうとした。


「……!」


 男の顔色が変わる。

 かわしたはずの槍が、異様な力で引き戻された。

 舵之丞の槍刃の根元の鉤が、肩当てを見事に捉えている。

 身体が浮き、前のめりに体勢が崩れる。

 余裕の表情が、一気に引き攣った。

 よろけた美丈夫の身体を、舵之丞が渾身の力で蹴り押す。

 波に揺れた船の傾きと相まって、美丈夫の身体は船縁まで転がった。

 衝撃で手から太刀が離れて、甲板を滑っていく。

 三島兵たちがその男を守ろうと押し寄せる。


「邪魔だぁっ」


 槍を構え直した舵之丞は、周囲の敵兵たちを相手に大きく立ち回る。

 波に揺れる船上。

 波に濡れた甲板。

 常人なら足を取られるその場所で、少年の足は滑らず自在に動く。

 舵之丞には並ならぬ平衡感覚があった。

 海の揺れそのものが、舵之丞のものであった。

 波の揺れに合わせて腰をずらし、敵の踏み込みが遅れる一瞬を読む。

 海戦を知り尽くしたはずの三島兵たちが逆に翻弄され、少年だからと侮った者から倒れていく。

 やがて海上の空気が変わった。


「おおおおっ!」

「岩国勢が乗り込んでるぞ!」

「続けぇっ!」


 大内兵たちの雄叫びが上がる。

 崩れかけていた士気が、息を吹き返していく。

 鉤縄が飛び、次々に大内兵が将船へと登ってくる。

 船上はさらに乱戦となった。

 舵之丞は負傷している十兵衛を抱き起こし、禰太郎の待つ小舟の位置を指し示す。

 十兵衛は苦笑した。


「舵ィ……、まさかてめぇに助けられるとはな……」


 血に濡れた肩を抑えながら、吐き捨てる。


「別にあんたを助けに来たわけじゃない」


 舵之丞は冷たく応えた。

 その目は明らかに、別のことに興味が向いている。


「ならば、何しに来た」

「ひと目でも見たくてね。隼の射止める(つる)、ってやつを」


 舵之丞が愉悦を滲ませて顔を上げた。

 その時。

 潮風が吹いた。

 いや、風が吹いたのではない。

 戦さの流れが大きく反転するかのような、戦場の変化だった。

 叫び声も、怒号も、刃の打ち合う音さえも一瞬遠のく。

 気づけば三島水軍の将兵たちが皆、舳先を見ている。

 舵之丞もつられるように視線を移した。


 砕けて舞う波の白い沫の向こう。 

 篝火に照らされ、一人の将が舳先に立っていた。

 黒髪が潮風に揺れる。

 額の鉢金が篝火を受けて鋭く光る。

 磨き込まれた伊達鎧は火の光を返し、右手の太刀の刃先にはまだ新しい血が薄く残る。


「……!」


 舵之丞は目を離せなかった。

 漆黒の海が揺れ、白波が砕け、篝火の灯が揺らめく。

 そんな動きの中で、彼女だけは動かない。

 海も、空も、風も。

 何もかもが、彼女を押し立てているように見えた。


「鶴どの、お下がりを」


 先ほどの美丈夫が落とした太刀を拾い上げ、護衛に向かう。


「いや」


 短い一言だった。

 だが、それだけで美丈夫の足は止まった。

 兵たちも道を開く。

 女将は静かに一歩前へ出た。

 がちゃりと、太刀の鍔が鳴る。

 その美しい瞳が、まっすぐ舵之丞を捉えた。


 舵之丞は思わず笑う。

 胸が高鳴る。

 身体の奥が、どうしようもなく熱くなる。

 鉤槍を構え直して、言い放つ。


「あんたか……」


 舵之丞の口元が、愉悦に上がる。


「鶴の女神ってのは!」



(つづく)

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