其の十七 築砦
大下島沖の海戦から五日が経った頃。
大三島西岸。
大見の浜へ、沖合より一艘の小早が静かに着いた。
「左京どのだ、左京どのが戻られたぞ!」
一将の叫びに、浜へ詰めていた三島水軍の将兵たちから歓声が湧き起こる。
中でも陣代の越智鶴の喜びはひときわ大きかった。
浜に降り立った越智左京のもとに駆け寄ると、思わずその手を取る。
「左京どの……、よく無事で。お怪我はないですか」
「ええ……。ですが、鶴どの。事態は急を要します」
左京は変わらぬ余裕を湛えた顔で無事を示したものの、その声音には早くも次なる戦を見据えた緊迫が滲んでいた。
陣屋へ向かうとすぐに、左京は鶴や諸将へ、大内勢との交渉の仔細を語っていく。
人質として大内家筆頭家老・陶五郎隆房に面会した左京は、その舌鋒と駆け引きをもって、かろうじて和議を取りまとめていた。
「しかし、あくまで私的な交渉に過ぎませぬ。得られたのは三月の停戦が限界でした。本格的な和議はこれからということですが、恐らく大内は、停戦が明ければ再び兵を挙げて来るでしょう」
「三月……」
諸将は左京の説明を聞き、重く息を呑む。
これまでの経緯を、左京が語る。
陶五郎との謁見と交渉を終えた後、左京は江良鬼丸の監視のもと、船で大下島へと戻った。
宮川佐之助は、大下島西岸の浜近くにある納屋の中に縛られていた。
江良鬼丸の立ち会いのもと、越智左京と宮川佐之助の人質交換が行われる。
それをもって三ヶ月の停戦が開始することも、改めて確認されたのである。
そこで江良鬼丸と宮川佐之助を誅殺する選択肢もあった。
だが、江良鬼丸は周防随一の猛将として知られる男。
容易に討てる相手ではない。
何より、その瞬間に三ヶ月の猶予も失われることになる。
左京はその条件を受け入れ、ようやく身柄を解かれて、大三島へと帰還したのであった。
「大内水軍も先の戦さで甚大な損害を受けております。停戦の約定を破り、即座に攻め寄せることはありますまい。しかし」
左京は静かに言葉を継ぐ。
「向こうが三月と定めたのは、三月もあれば水軍が再編成できると踏んでのことでしょう。つまり、三月を過ぎればすぐに攻めて来ると考えるべきです」
「確かに。以前よりも多勢で来そうだな……」
諸将は左京の緊迫の説明を受けて、再戦の覚悟を固めていく。
「では、その三月の間、何をすべきですか」
陣代の鶴は、率直に左京に問う。
左京は、すでに腹案を固めていたかのように即答した。
「大三島西岸に、要塞を作ります」
諸将がざわめき、一将が恐る恐る尋ねる。
「大三島に……砦を築くというのか」
「左様。宗方の一帯が最も良いかと」
左京の言葉に、その場の空気が張り詰める。
大山祇神社を擁する大三島は、古来より「神の島」として崇められてきた。
ゆえに、島へ戦さを持ち込むことは長らく忌避されている。
史上最古の水軍出城と称される甘崎城をはじめ、三島水軍の拠点はいずれも大三島の島内ではなく、周辺の別の島々に築かれていた。
だが、先の戦さでは、大下島へ大内軍を誘い込んだとはいえ、それら外縁の砦はどれも大内軍に攻略されている。
もし次の大内軍が前回を上回る軍勢で押し寄せたならば――。
もはや、大三島そのものを盾とする他ない。
諸将は、いよいよ瀬戸際に追い込まれていることを悟り、焦燥を滲ませた。
左京が名を挙げた宗方は、大三島の南西端の一帯であり、大下島に最も近い地である。
宗方と大下島に挟まれた海峡には、大小様々な無人島が浮かぶ。
左京の構想は、それらの無人島に出城を点在させ、大三島の宗方には補給と兵站を担う本陣を築く、というものであった。
さすれば、大内の大軍が到来しても海峡で分断し、包囲することができる。
加えて、また大三島本土に城砦を築くという禁忌からも幾分距離を置ける。
それが左京の描く策であった。
「さすがだの、左京どの……。これはまた勝てそうじゃ」
海を知り尽くす三島水軍の諸将にとっては、その構想は極めて現実的に思えた。
鶴はしばし沈思した後、静かにうなずく。
「分かりました。兄様……大祝様へはこの鶴が説明し、お許しをいただきましょう。島々の豪族への協力も仰ぎます。三月の間に、できる備えを尽くしましょう。左京どの、任せてよいですか」
「もちろんです。大内軍を寄せ付けぬ要塞を築いてご覧に入れましょう」
(あなたを護るために――。鶴どの)
左京は自信に満ちた言葉で諸将の士気を鼓舞しながらも、その胸奥に秘めた想いだけは、誰にも悟られぬよう静かに沈めていた。
それから三ヶ月の間。
越智左京は、築城の才に長けた島左衛門と共に、大三島南西の宗方一帯の築陣に心血を注いだ。
柏島、肥島、三ツ子島など、宗方沖に浮かぶ島に出城を築いていく。
宗方の浜には幾重にも柵を巡らせ、物見櫓を立て、兵糧庫や舟溜まりも整えた。
左京はその建設費や資材費もいつしか調達しており、建設は早く進む。
宗方の入江そのものが、一つの巨大な海上要塞へと変貌していったと言ってよい。
大山祇の神域へ戦さを持ち込むことへの恐れは、諸将の胸にも強く残る。
だが、無策のままでは大三島そのものが滅びてしまう。
その危機感が、島の者たちを動かしていた。
鶴は村上水軍など、周辺の豪族たちの拠点に出向いては、有事における協力を仰ぎ、約定を取り付けていった。
そして、常に自ら浜へ足を運び、将兵たちを励まし続けている。
潮風に髪を靡かせながら働くその姿は、まさに神島を守る女神のようであった。
「姫様を守って差し上げなければ」
その姿を見るたび、将兵たちの士気は不思議と奮い立った。
――そして三ヶ月後。
大内軍が動いたという報が、周防本土へ放っていた密偵より届けられる。
宗方の浜に築かれた陣営へ、斥候が息を切らして駆け込んできた。
「富田水軍は再編成され、さらに九州より大内警固衆がもう一軍合流。富田湊より、五百余艘、兵四千が出撃した模様」
「前回より多いな……」
その報に、三島水軍の諸将たちが思わず顔をこわばらせる。
一将が静かに斥候に尋ねた。
「して――。大内の総大将は誰だ。また白井縫殿助か」
「いえ……」
斥候は一度、生唾を飲み込んだ。
その名を告げるだけで、場の空気が変わると分かっていた。
慎重に、報告を続ける。
「総大将は――大内筆頭家老、陶五郎隆房が自ら務めております」
「……!」
諸将が息を呑み、互いに顔を見合わせた。
ついに、あの「周防の虎」陶五郎隆房が、自ら出てくる。
それはすなわち、大内がこの戦に本腰を入れたということであった。
「いよいよ決着です。鶴どの」
左京は意を決したように、陣代に告げる。
だが、鶴は不意に斥候に問いかけた。
「その中に、岩国水軍はいますか?」
予想外の問いに、諸将たちが一瞬唖然とする。
陶隆房よりも、あの少年が率いていた岩国水軍が気になるのか――。
あの時の鶴と隼の一騎打ちが、諸将の目に浮かぶ。
斥候も面食らいながら、記憶を辿って答えた。
「はっ……。岩国水軍は、此度も警固衆の一団として参陣しております。弘中舵之丞が率いているとのこと」
「そうですか――」
鶴は静かにうなずいた。
その鶴の横顔を見た左京は、胸の奥にわずかな痛みを覚える。
あの夜明けの海で刃を交えた、あの少年との再戦を望んでいる――。
そんな微笑が、左京には見えた。
(つづく)




