其の十六 帰還
富田湊。
周防国守護代陶家の居城・若山城の眼下に築かれた軍港である。
南に浮かぶ黒髪島が波除けとなり、古くより天然の良港として知られ、陶家の富田水軍の拠点となっている。
この日、その湊には陣幕が張られ、陶五郎隆房が床几に座していた。
五郎はこの富田の領主であると同時に、大国大内家の筆頭家老でもある。
広大な勢力圏へ常に目を配らなければならず、所領たるこの地へ腰を落ち着ける暇も少ない。
つい先日まで、無二の親友である弘中小太郎隆包が新たに守護代に就任した安芸へ赴き、共に敵対国衆の掃討に駆け回っていたばかり。
だがこの日は帰国し、海戦から戻る家臣たちをこの湊で待っていた。
左には江良鬼丸、右には伊香賀壱次郎。
「若山の五房」に名を連ねる若き二人の豪傑が立っている。
やがて、大下島沖で甚大な損害を被った富田水軍が、重苦しい空気と共に帰港した。
総大将を務めた白井縫殿助が、陣内に現れる。
主君・陶五郎隆房の前へ膝をつき、深々と頭を下げる。
白装束であった。
伊香賀壱次郎が、たまらず怒声を放つ。
「縫殿助、なんたる失態だ! 一度ならず二度までも、殿の顔に泥を……」
「やめろ、壱次郎」
江良鬼丸が止めた。
続いて、五郎が静かに口を開く。
「渦中にない者は渦中の者に口を出すべきじゃないぜ、壱ィ。渦中の者にしか分からないこともある」
「は、はっ……。出過ぎました」
壱次郎は恐縮し、頭を下げて一歩退く。
だが縫殿助は、額を地へこすりつける。
「いえ、壱次郎の申す通り」
その声は震えながらも、覚悟が表れていた。
「再び殿の水軍を預かる御配慮をいただきながら、この大敗の罪禍……。白井縫殿助、もはや申し開きのしようもございませぬ。かくなる上は……」
「縫ィ!」
五郎の大声が、縫殿助の震える言葉を遮った。
「白装束とは大層な格好じゃねえか。そんな小綺麗な格好に着替えてる暇があったなら、潮に濡れ血に汚れたままでいい、さっさと無事な顔を見せに来いよ」
「と、殿……」
「勝敗は兵家の常だ。二度ほど負けたぐらいで、命を断とうなどと思うんじゃねえぞ。な、縫ィ」
五郎は笑みすら浮かべて言った。
「おまえたちには『若山の五房』という二つ名がついてるんだからな。一人として欠けられたら困る」
その顔と声には、敗北への怒気はほとんどなかった。
縫殿助は額を地につけたまま、肩を震わせている。
本来なら、五郎は若山城で待っていてもいいはずである。
それをあえて湊にまで出張っているのは、敗れて戻る家臣たちを真っ先に迎えるためであろう。
その主君の心遣いに、縫殿助は耐えきれず男泣きをしていた。
「しかし、殿」
微動だにしない江良鬼丸が、目だけを五郎に向けて進言する。
「十兵衛も佐之助も、いまだ戻っておりませぬ」
「言ったろ、鬼ィ。若山の五房は誰も欠けねえ」
五郎は鬼丸に笑った。
「あいつらは、必ず生きて戻ってくる」
その確信めいた言葉に、鬼丸は静かに目でうなずき、壱次郎は半信半疑の表情を浮かべている。
その時であった。
湊の監視台より報を受けた伝令が、慌ただしく駆け込んでくる。
「岩国水軍、弘中舵之丞どのが戻ってまいります――-!」
陣内の諸将が、一斉にざわめいた。
その中でただ一人、五郎はそれを予期していたかのような表情を見せている。
そして床几からゆっくりと立ち上がり、やや笑みを見せた。
弘中舵之丞が岩国の一党を率いて、陣中に現れた。
純白の死装束に身を包む白井縫殿助とは対照的に、舵之丞の顔は血と汗にまみれ、鎧は幾筋もの傷と帰り血に汚れている。
その傍らでは、四人の兵が戸板を担いでいた。
上には、全身を血に染めた瀕死の三浦十兵衛が横たわっている。
五郎が歩み寄り、上からその顔を覗き込む。
「よう、十ゥ。よう戻ってきたな」
「殿……面目ない……。口惜しいが、舵之丞が来なければ……死んでいた」
十兵衛は唇を震わせながら、かろうじて言葉を絞り出す。
敵の将船から舵之丞が上から落ちてきて、その衝撃でさらに死にかけたことは、さすがに言い出せなかったが。
「そうか。あとは俺が上手くやっておく。早く治せ」
五郎は十兵衛へ笑いかけると、周囲の兵へ手早く救護を指示した。
運ばれていく十兵衛を見送りながら、舵之丞に向き直る。
「それで舵ィ。そいつは誰だ」
顎で指した先には、小山弥右衛門の持つ縄に縛られた若き美丈夫が立っていた。
舵之丞は相変わらず早々に事を進めるいつもの五郎の奔放さに苦笑しながら、答える。
「越智左京という将だって」
「ほう……。そいつが」
「捕まえたんだけど、佐之助どのの居場所を知ってるらしくてさ」
舵之丞が淡々と伝えると、陶勢が一斉にざわついた。
越智左京は自ら進み出て、五郎の前に膝をつき、堂々と口を開く。
「拙者、三島水軍が一将、越智左京安成と申す。宮川佐之助どのは生きておられる」
「ほう」
五郎が見下ろしながら呟いた。
左京は五郎を見上げ、半ば挑戦的に言い放つ。
「拙者のみがその幽閉場所を知っている。それを陶どのにお伝えしたく、こちらに参った」
五郎は再び床几に腰をかけ、腕を組んで言った。
「そうか。貴殿が噂の左京どのか。三島の知恵袋だそうだな」
「そう呼ばれております」
「俺は知恵者が好きでな。おい壱ィ、縄を解いてやれ」
五郎は右に控える伊香賀壱次郎へ命じる。
壱次郎が小刀で左京の縄を切っている間、岩国水軍の面々は「せっかく捕えたのに」と言わんばかりの不満顔を浮かべている。
そんな視線も意に介さず、五郎は左京へ床几を進めた。
交渉は早かった。
生捕りとなっている宮川佐之助の身と引き換えに、越智左京を三島水軍へと返す。
その人質交換の形で、停戦和議を進める――。
話は即座にまとまった。
「陶どのは噂に聞く名将にございますな。話が早く、驚いております」
越智左京は感心したように言った。
陶五郎隆房は、左京よりも一つ年下。
左京はこれまで、ただ陶の血流に恵まれただけの御曹司だと思っていた。
だが、この若さにして、すでに名君たる器が見える。
五郎は笑って答えた。
「いや、二度も貴殿ら三島勢にやられたのは、この陶五郎の不肖ゆえよ。実はな、警固衆の冷泉判官のほうが正しかった」
「と言いますと」
「俺が評定で瀬戸内攻略を提案した時、冷泉判官は反対したのさ。西国を治めるなら、瀬戸内の島の者らとは仲良うして労わるべきだとな。結局は俺の案が通ったが――、判官の言うとおりだった」
「ほう……」
「貴殿らと手を取り合う道を選んでいれば、富田の舟も失うことも、三浦をあんな目に遭わせることもなかった。この俺の未熟さよ」
「陶どの……」
左京は静かに目を細めた。
鶴の美しい顔が、脳裏に浮かぶ。
鶴の陣代としての働きが、そして鶴を想う自分の交渉がこうして、瀬戸内の覇を狙っていた大内筆頭家老の心すら動かしたのだ。
左京は万感の思いであった。
「さて――。待たせたな、舵之丞」
交渉を手早くまとめた五郎は、近くで交渉の様子を見ていた舵之丞に声をかけ、床几から立ち上がる。
「皆の者」
一同を見渡し、五郎は高らかに宣した。
「見ての通り。弘中舵之丞は、瀕死の三浦十兵衛房清を救出し、敵将越智左京を捕え、いま宮川佐之助房頼の返還の交渉も相成った。舵之丞の軍功は一目瞭然」
「……!」
その言葉に、弥右衛門たち岩国水軍の目が一斉に輝く。
五郎は続けた。
「よって、岩国水軍は警固衆より弘中家へ返還するよう、冷泉判官どのと共に御屋形様へ奏上する」
「おおっ!」
岩国勢から歓喜の声が湧き上がった。
だが――。
「待ってくれ、五郎どの」
一人の大声が、その熱気を断ち切る。
舵之丞であった。
「判官どのがオレに課した条件が二つある。誰もが認める軍功――それを評価してもらえたのはありがたい。だけど――-」
舵之丞は真っ直ぐに五郎の瞳を見据えて言った。
「もう一つの条件は、大内の勝利だ。此度の戦、大内は勝っていない」
「越智左京を捕えたのだ。負けてもおるまい」
五郎は左京を指し示しながら言ったが、舵之丞は静かに首を横に振った。
「いや――、敵の陣代、鶴どのを捕らえようと思えば捕えられたんだ。オレは勝利の条件を自ら捨てたも同じ。条件を課してくれた判官どのに申しわけがない」
(若ぁ……、変なところで律儀すぎるでしょ……!)
弥右衛門たちは眉をひそめる。
せっかく岩国水軍返還が叶うというのに。
それに、小山弥太次を手にかけた憎き越智左京が、筆頭家老の五郎に気に入られているのも気に食わない。
そんな岩国勢の不満と落胆を敏感に察した五郎は、苦笑する。
「おまえはやっぱり、あのお堅い小太郎の弟だな。意固地でよ」
五郎は舵之丞に肩を叩く。
そしてその肩を強く抱き、他の誰にも聞こえないように、その耳元で静かにささやいた。
「おまえは既に、勝利をもたらしている」
(つづく)




