其の十五 宿縁
弘中舵之丞は好敵手との決着をつけるべく、構えた槍を握り直す。
だが――。
越智鶴の顔色は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
つい今しがたまで猛っていた戦意が、潮の引くように消え去っている。
その表情は、不思議なほど澄み渡っていた。
「おい、どうした」
まるで猫じゃらしを猫の鼻先にちらつかせるかのように、舵之丞が槍先を揺らしながら言った。
「……!」
次の瞬間、舵之丞は目を見開く。
鶴が、自ら太刀を手放していた。
甲高い金属音を立て、太刀が甲板に転がる。
「おい……」
舵之丞の口から、つい声が漏れる。
それは呆れや苛立ちではなく、病人を心配するような声に近かった。
鶴はどこか達観したような表情を浮かべ、つぶやくように言った。
「私が代わりに人質になる。左京どのを離してやって」
周囲の大内兵も、三島兵も、言葉を失う。
鶴は陣代――すなわち三島水軍の総大将である。
総大将の捕縛は、そのまま勝敗の決着を意味していた。
寡勢の三島水軍が、大軍たる大内勢をここまで追い詰めながら、かくも呆気なく戦の幕が下りるというのか……。
誰もが信じ難げに硬直している。
「なりませぬ! 鶴どの! なりませぬ」
両手を背後に縛られた越智左京だけが、必死で身を捩らせて叫んでいた。
だが鶴の瞳からは、もはや大内への敵意が完全に消えている。
そこにあるのは、ただ一族と部下を案ずる情のみであった。
槍を向けていた舵之丞の肩からも、いつしか力が抜けている。
「……いいのか、あんた。陣代だろ」
「ええ。捕らえるのは陣代の私だけでいいでしょう? あとは皆、大三島に帰してあげて」
「……」
三島兵たちもまた一人、二人と、陣代の鶴に倣うように武器を甲板へ放り始めた。
朝が近づき、東の空がほの白んでいく。
薄明の中に浮かび上がる鶴の顔には、凛として澄みきった美しさがあった。
「鶴どの……」
つい、舵之丞の口から初めて、好敵手へ敬称が漏れる。
「本気なのか」
「くどいよ。早くして」
鶴は言いながら、懐に忍ばせていた短刀までも甲板へ放った。
抵抗する術がないことを、明らかにする。
「……」
舵之丞は、息を呑む。
これで、岩国水軍は弘中家に戻るのか――。
岩国勢の胸の内に、熱いものが込み上げてくる。
越智鶴を捕らえれば、岩国水軍再興への道が開く。
舵之丞は、その栄誉を掴むべく、鶴に手を伸ばした。
――だが。
「宮川佐之助を生け捕っている!」
越智左京の必死の一言が、その手を止めた。
「……!」
「……え!?」
思わぬ自白に、大内勢の動きも止まる。
左京はなおも叫ぶ。
「若山五房の宮川佐之助は、生きて拙者の手の内にある。捕らえている場所は、陣代の鶴どのも知らぬ。知っているのは拙者だけだ」
舵之丞が冷汗を頬に伝わせながら、左京を振り返る。
「まことか」
「左様。拙者を陶どのの元へ連れて行け。なれば宮川は生きて返す。鶴どのを捕えるというなら、宮川は必ず殺す。どうだ」
左京は気迫のこもった眼差しで、舵之丞を睨み返す。
鶴を危険から護るためなら、恥も名分も構わぬ。
どんな交渉でも仕掛ける意気であった。
舵之丞は再び鶴へと目をむける。
「……」
鶴は胸元を押さえながら、浅く肩で息を繰り返している。
宮川佐之助のことは、鶴には本当に初耳だったのであろう。
舵之丞は考える。
越智左京は策士である。
佐之助を捕らえているという言葉も、果たして真か嘘か分からない。
岩国水軍返還という悲願が、今まさに手を伸ばせば届くところにある。
だがそれを捨ててまで、この左京の言を信じるべきなのか――。
弥右衛門たちも固唾を呑み、若き頭領の裁断を待っていた。
その時。
一人の大内兵が西の沖を指差して叫んだ。
「富田の将船が、抜けたぞぉーーっ!」
その指が示す先には、富田水軍の将船が、舟々が密集する乱戦の海域を抜け、西へと進んでいくのが見えた。
大内軍総大将・|白井縫殿助《しらいぬいのすけ乾のすけ》が、ついに三島水軍の包囲から脱したのである。
「……よし」
舵之丞はその光景を見届けると、深く息を吐いた。
「我々は越智左京を連れて富田湊へ返す。戦さは終わりだ」
その言葉に、弥右衛門たち岩国勢がざわめいた。
「本気ですか、若」
「あの女陣代を捕らえれば、大内の大勝利なんですぞ」
口々に異論が上がる中、舵之丞は静かに言い放つ。
「佐之助どのは陶の家臣。その命が懸かっている以上、陶の五郎どのの裁可もなく、我らだけで勝手を決めるわけにもいかない」
そして、左京を手で示して部下たちに説いた。
「だから、この左京を佐之助どのとの交換の人質として、陶どのに引き渡すのが最善だろう」
陶五郎隆房は大内の筆頭家老。
その存在を軽んずるわけにはいかない。
舵之丞の言葉に、岩国水軍の兵たちは渋々ながらも頷く。
ただ一人を除いて。
「弥右衛門っ!」
舵之丞が叫んだ。
小山弥右衛門だけは、父の仇を討つ機会を狙って太刀を構えていた。
「岩国水軍の再興は弥太爺の長年の夢。間違えば叶わない。ここは堪えろ」
若き主が命じるが、弥右衛門の怒りの震えは収まらない。
舵之丞は重ねて告げる。
「弥太爺の夢も、弥右衛門の悲しみも、全てオレが受け止める。必ず、オレが背負っていく」
その言葉に、弥右衛門は太刀を鞘に収めた。
涙があふれている。
自分よりはるかに年下の少年が、岩国水軍全員の人生を抱いていく覚悟を見せている。
そのことに、弥右衛門は心が打ち震えていた。
(父上……。この弥右衛門、全身全霊を懸けてこの若にお仕えします。この若と共に、父上の夢を追いかけてまいります)
止めどなく涙を流しながら、弥右衛門は胸の内で亡き父に誓う。
大きく息を吐くと、弥右衛門は左京の縄を引いて立たせた。
「待って――」
鶴が思わず、舵之丞の肩当てに手を触れ、嘆願する。
「やっぱり、私を連れて行って。左京どのに手を出さないで」
左京が捕えられたのは、鶴が左京の名を口にしてしまったからである。
そのことに、鶴は自責の念に駆られている。
一族を想う鶴の気持ちは、舵之丞には痛いほど伝わっていた。
だが、舵之丞は小さく頭を振った。
「鶴どの……。陶の五郎どのとて、家臣想いの大将だ。佐之助どのとの人質交換には必ず応じる。左京を殺めるはずがない」
「……」
「それに……」
舵之丞は一歩前に進み出ると、至近の距離から鶴を見上げた。
三つ年下の舵之丞は、まだ鶴より背が低い。
自然と、挑みかかるような見上げた視線になる。
「それに、こんなことで、あんたとの決着がつくのは嫌なんだ」
舵之丞の言葉に、鶴は顔を赤らめ、しばし呆然とした。
だが、すぐにふっと表情を和らげる。
「……分かった。左京どのが戻ったら、再戦といこうよ」
「望むところ。次こそ、隼が鶴を射止める」
「まだ言ってる」
「射止めるまでは、何度でも言う」
二人は激しい視線で睨み合う。
だが、その少年と少女の口元には、誰の目にも分かる笑みが浮かんでいた。
舵之丞が振り返り、声高く号令を放つ。
「よぉし、岩国水軍――大内勢も、みな引き上げだ!」
「おおぉっ!」
岩国水軍の兵たちは、この夜で最も大きな声で応えた。
三島兵たちが陣代の鶴に倣って武器を捨てていく中、岩国勢は縄で捕らえた越智左京を連れて、それぞれの舟に戻っていく。
舵之丞もまた、船下で待機する禰太郎の小早へと降りるべく、船縁へ足を掛けた。
その時――。
「舵之丞」
鶴が呼び止めた。
舵之丞が船縁を踏んだまま、肩越しに振り返る。
「なんだよ」
「……左京どのを頼みます。我らは、あなたたちの引き上げに手出しはしない。だけど……」
そこまで言って、鶴はふっと微笑みを見せた。
「揺れる舟から落ちて、風邪引いちゃだめだよ」
「子ども扱いすんな」
舵之丞も笑い返す。
「鶴どのも、十兵衛どのの亡霊に呪われるなよ」
「死んでねえぞ!」
下で待つ禰太郎の舟から、瀕死の三浦十兵衛の怒鳴り声が聞こえてきた。
鶴は思わず、くすりと笑う。
そして、小さく手を振った。
「またね」
「また」
舵之丞もまた、小さく手を挙げて応える。
鉤槍を握って、勢いよく船縁を超えて跳んだ。
直後、船下から「ぐえっ」という十兵衛の呻きが響いた。
(つづく)




