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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第二幕 波乱の再戦
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其の十五 宿縁


 弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)は好敵手との決着をつけるべく、構えた槍を握り直す。

 だが――。

 越智鶴(おちのつる)の顔色は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 つい今しがたまで猛っていた戦意が、潮の引くように消え去っている。

 その表情は、不思議なほど澄み渡っていた。


「おい、どうした」


 まるで猫じゃらしを猫の鼻先にちらつかせるかのように、舵之丞が槍先を揺らしながら言った。


「……!」


 次の瞬間、舵之丞は目を見開く。

 鶴が、自ら太刀を手放していた。

 甲高い金属音を立て、太刀が甲板に転がる。 


「おい……」


 舵之丞の口から、つい声が漏れる。

 それは呆れや苛立ちではなく、病人を心配するような声に近かった。

 鶴はどこか達観したような表情を浮かべ、つぶやくように言った。


「私が代わりに人質になる。左京(さきょう)どのを離してやって」


 周囲の大内(おおうち)兵も、三島(みしま)兵も、言葉を失う。

 鶴は陣代――すなわち三島水軍の総大将である。

 総大将の捕縛は、そのまま勝敗の決着を意味していた。

 寡勢の三島水軍が、大軍たる大内勢をここまで追い詰めながら、かくも呆気なく戦の幕が下りるというのか……。

 誰もが信じ難げに硬直している。


「なりませぬ! 鶴どの! なりませぬ」


 両手を背後に縛られた越智左京だけが、必死で身を捩らせて叫んでいた。

 だが鶴の瞳からは、もはや大内への敵意が完全に消えている。

 そこにあるのは、ただ一族と部下を案ずる情のみであった。

 槍を向けていた舵之丞の肩からも、いつしか力が抜けている。


「……いいのか、あんた。陣代だろ」

「ええ。捕らえるのは陣代の私だけでいいでしょう? あとは皆、大三島に帰してあげて」

「……」


 三島兵たちもまた一人、二人と、陣代の鶴に倣うように武器を甲板へ放り始めた。

 朝が近づき、東の空がほの白んでいく。

 薄明の中に浮かび上がる鶴の顔には、凛として澄みきった美しさがあった。


「鶴どの……」


 つい、舵之丞の口から初めて、好敵手へ敬称が漏れる。


「本気なのか」

「くどいよ。早くして」


 鶴は言いながら、懐に忍ばせていた短刀までも甲板へ放った。

 抵抗する術がないことを、明らかにする。


「……」


 舵之丞は、息を呑む。

 これで、岩国水軍は弘中家に戻るのか――。

 岩国勢の胸の内に、熱いものが込み上げてくる。

 越智鶴を捕らえれば、岩国水軍再興への道が開く。

 舵之丞は、その栄誉を掴むべく、鶴に手を伸ばした。

 ――だが。


宮川佐之助(みやがわさのすけ)を生け捕っている!」


 越智左京の必死の一言が、その手を止めた。


「……!」

「……え!?」


 思わぬ自白に、大内勢の動きも止まる。

 左京はなおも叫ぶ。


若山五房(わかやまごぼう)の宮川佐之助は、生きて拙者の手の内にある。捕らえている場所は、陣代の鶴どのも知らぬ。知っているのは拙者だけだ」


 舵之丞が冷汗を頬に伝わせながら、左京を振り返る。


「まことか」

「左様。拙者を(すえ)どのの元へ連れて行け。なれば宮川は生きて返す。鶴どのを捕えるというなら、宮川は必ず殺す。どうだ」


 左京は気迫のこもった眼差しで、舵之丞を睨み返す。

 鶴を危険から護るためなら、恥も名分も構わぬ。

 どんな交渉でも仕掛ける意気であった。

 舵之丞は再び鶴へと目をむける。


「……」


 鶴は胸元を押さえながら、浅く肩で息を繰り返している。

 宮川佐之助のことは、鶴には本当に初耳だったのであろう。

 舵之丞は考える。

 越智左京は策士である。

 佐之助を捕らえているという言葉も、果たして真か嘘か分からない。

 岩国水軍返還という悲願が、今まさに手を伸ばせば届くところにある。

 だがそれを捨ててまで、この左京の言を信じるべきなのか――。

 弥右衛門たちも固唾を呑み、若き頭領の裁断を待っていた。


 その時。

 一人の大内兵が西の沖を指差して叫んだ。


富田(とんだ)の将船が、抜けたぞぉーーっ!」


 その指が示す先には、富田(とんだ)水軍の将船が、舟々が密集する乱戦の海域を抜け、西へと進んでいくのが見えた。

 大内軍総大将・|白井縫殿助《しらいぬいのすけ乾のすけ》が、ついに三島水軍の包囲から脱したのである。


「……よし」


 舵之丞はその光景を見届けると、深く息を吐いた。


「我々は越智左京を連れて富田湊へ返す。戦さは終わりだ」


 その言葉に、弥右衛門たち岩国勢がざわめいた。


「本気ですか、若」

「あの女陣代を捕らえれば、大内の大勝利なんですぞ」


 口々に異論が上がる中、舵之丞は静かに言い放つ。


「佐之助どのは陶の家臣。その命が懸かっている以上、陶の五郎どのの裁可もなく、我らだけで勝手を決めるわけにもいかない」


 そして、左京を手で示して部下たちに説いた。


「だから、この左京を佐之助どのとの交換の人質として、陶どのに引き渡すのが最善だろう」


 陶五郎隆房は大内の筆頭家老。

 その存在を軽んずるわけにはいかない。

 舵之丞の言葉に、岩国水軍の兵たちは渋々ながらも頷く。

 ただ一人を除いて。


弥右衛門(やえもん)っ!」


 舵之丞が叫んだ。

 小山弥右衛門だけは、父の仇を討つ機会を狙って太刀を構えていた。


「岩国水軍の再興は弥太爺の長年の夢。間違えば叶わない。ここは堪えろ」


 若き主が命じるが、弥右衛門の怒りの震えは収まらない。

 舵之丞は重ねて告げる。


「弥太爺の夢も、弥右衛門の悲しみも、全てオレが受け止める。必ず、オレが背負っていく」


 その言葉に、弥右衛門は太刀を鞘に収めた。

 涙があふれている。

 自分よりはるかに年下の少年が、岩国水軍全員の人生を抱いていく覚悟を見せている。

 そのことに、弥右衛門は心が打ち震えていた。


(父上……。この弥右衛門、全身全霊を懸けてこの若にお仕えします。この若と共に、父上の夢を追いかけてまいります)


 止めどなく涙を流しながら、弥右衛門は胸の内で亡き父に誓う。

 大きく息を吐くと、弥右衛門は左京の縄を引いて立たせた。



「待って――」


 鶴が思わず、舵之丞の肩当てに手を触れ、嘆願する。


「やっぱり、私を連れて行って。左京どのに手を出さないで」


 左京が捕えられたのは、鶴が左京の名を口にしてしまったからである。

 そのことに、鶴は自責の念に駆られている。

 一族を想う鶴の気持ちは、舵之丞には痛いほど伝わっていた。

 だが、舵之丞は小さく頭を振った。


「鶴どの……。陶の五郎どのとて、家臣想いの大将だ。佐之助どのとの人質交換には必ず応じる。左京を殺めるはずがない」

「……」

「それに……」


 舵之丞は一歩前に進み出ると、至近の距離から鶴を見上げた。

 三つ年下の舵之丞は、まだ鶴より背が低い。

 自然と、挑みかかるような見上げた視線になる。


「それに、こんなことで、あんたとの決着がつくのは嫌なんだ」


 舵之丞の言葉に、鶴は顔を赤らめ、しばし呆然とした。

 だが、すぐにふっと表情を和らげる。


「……分かった。左京どのが戻ったら、再戦といこうよ」

「望むところ。次こそ、隼が鶴を射止める」

「まだ言ってる」

「射止めるまでは、何度でも言う」


 二人は激しい視線で睨み合う。

 だが、その少年と少女の口元には、誰の目にも分かる笑みが浮かんでいた。

 舵之丞が振り返り、声高く号令を放つ。


「よぉし、岩国水軍――大内勢も、みな引き上げだ!」

「おおぉっ!」


 岩国水軍の兵たちは、この夜で最も大きな声で応えた。

 三島兵たちが陣代の鶴に倣って武器を捨てていく中、岩国勢は縄で捕らえた越智左京を連れて、それぞれの舟に戻っていく。

 舵之丞もまた、船下で待機する禰太郎の小早へと降りるべく、船縁へ足を掛けた。

 その時――。


「舵之丞」


 鶴が呼び止めた。

 舵之丞が船縁を踏んだまま、肩越しに振り返る。


「なんだよ」

「……左京どのを頼みます。我らは、あなたたちの引き上げに手出しはしない。だけど……」


 そこまで言って、鶴はふっと微笑みを見せた。


「揺れる舟から落ちて、風邪引いちゃだめだよ」

「子ども扱いすんな」


 舵之丞も笑い返す。


「鶴どのも、十兵衛(じゅうべえ)どのの亡霊に呪われるなよ」

「死んでねえぞ!」


 下で待つ禰太郎の舟から、瀕死の三浦(みうら)十兵衛の怒鳴り声が聞こえてきた。

 鶴は思わず、くすりと笑う。

 そして、小さく手を振った。


「またね」

「また」


 舵之丞もまた、小さく手を挙げて応える。

 鉤槍を握って、勢いよく船縁を超えて跳んだ。

 直後、船下から「ぐえっ」という十兵衛の呻きが響いた。




(つづく)



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