夢の船
その夜が深まっても、外は静かにならなかった。
窓の向こうで声がしていた。一人ではなく、何人かが重なっている。内容は聞き取れなかった——あるいは聞こうとしていなかった。ハルは居間のソファに座って、膝の上に手を置いていた。テレビはついていなかった。水槽のベニクラゲが、薄暗がりの中でゆっくりと動いていた。
台所から水音が聞こえた。静が食器を片付けているらしかった。陶器と陶器が低い音で触れ合う。規則的な音が続いていた。
外の声が一度大きくなった。また小さくなった。潮のように。
遠くで何かが割れた。ガラスに近い音だった。高く短い音の後、いくつかの声が重なり、また静かになった。ハルは立ち上がらなかった。立ち上がって、何をするのかがわからなかった。
台所の水音が止まった。静が居間に入ってきた。手ぬぐいを手に持ったまま、戸口で一度止まった。
「何か聞こえた?」
「聞こえた」
静は手ぬぐいを畳んで、ソファの端に座った。テーブルの上に、湯呑みが二つあった。どちらも冷めていた。
ハルはカーテンを見た。引いてあった。光が滲んでいた——街灯か、車か、それとも別の何かか、判断できなかった。
サイレンが鳴り始めた。一台ではなく重なって聞こえた。遠くなり、また近くなった。窓の光が動いた。
「なぜ、今なの」
声に出すつもりはなかった。出てしまった。静は手ぬぐいを見ていた。ハルは続けた。
「七日後でなくてもよかったはずでしょう。来年でもよかった。十年後でも、百年後でも——なのに、なぜ今なの」
静は答えなかった。
腰を上げて、水槽の前に移動した。ガラスの縁に手をついて、中を見た。ベニクラゲが傘を広げ、閉じる。また広げ、閉じる。静はそれを見ていた。ハルも黙って待った。
外のサイレンが止まった。しかし別の音が続いていた。遠くで誰かが、大きな声で何かを言い続けていた。何を言っているかは、ここまで届かなかった。届くのは声の気配だけだった——怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。
静がゆっくりと振り向いた。ソファには戻らなかった。水槽の前に立ったまま、ハルを見た。
「答えを言えないわけじゃないんだよ」と静は言った。「ただ——答えを聞いたとして、あなたはどうするの、という気持ちがあって」
「どうもしない」とハルは言った。「ただ、聞きたい」
静は黙って考えた。それから床に腰を下ろした。水槽のガラス面に背中をつけて、ハルを見上げる格好になった。外でまた音がした。複数の人間が、何か重いものを動かしているような音だった。
「昔、研究所にいたころ——」と静は言った。「星に行く船の計算をしていた、という話はしたね」
「うん」
「あれが、なぜ実現しようとしているか——本当の理由が、わかってきたのは、だいぶあとのことだったよ」
ハルは聞いていた。
「死ねなくなったからだよ。私たちが。不老になって、なかなか死ねなくなった。だから場所が足りなくなってきた。だから、誰かを外に出さないといけなくなった」
静は言葉を切った。手のひらをゆっくりと膝の上で重ねた。
「ずっとそれが夢だったのに。星に行くことが。理由がこれだとは——思わなかったね」
静の声は平らだった。責めていなかった。嘆いてもいなかった。ただ確認するように、静かに言った。
ハルは何も言わなかった。
夢が実現した。でも、理由が——。
その先を、頭の中で言葉にしようとして、止まった。言葉にしたとたんに何かが確定してしまうような気がして、止まった。
「星に行く人たちは」とハルは言いかけた。
「棄民だよ」と静は言った。「言葉を選べば、移民。でも実態は、場所を空けるために外に出た人たちだ。行きたくて行くのか、行くしかなくなって行くのか——外からは、もう見えなくなる」
静は天井を見た。間があった。
「でも」と静は続けた。「船を出せた文明は、まだここにいるんだよ」
ハルはその言葉を受け取ったまま、すぐには動かなかった。静はそれ以上を言わなかった。床に座ったまま、水槽のガラスに背中をあずけて、どこか遠くを見ていた。
船を出せた文明は、まだここにいる。
出せなかった文明は——。
補おうとして、止まった。言葉が出なかった、というより、その後に来るものがわかりすぎていた。わかった上で、静かに止まった。
外でまた声がした。今度は遠かった。複数の人間が何かを叫んでいた。だんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
静が立ち上がった。床から起き上がる動作が、少しだけ時間がかかった。ハルは手を差し伸べようとして、やめた。静はすでに立っていた。
「寝なさい」と静は言った。「明日も、一日ある」
ハルは頷いた。
静が廊下に消えてから、ハルはしばらく動かなかった。水槽を見た。ベニクラゲが傘を開いた。ただそれだけが、動いていた。




