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テレビの音

 翌朝、母は庭に水をやっていた。


 ハルは縁側に腰を下ろして、それを見ていた。静がホースを持って、花壇の端から端へゆっくり動く。水がアーチを描いて、土に落ちた。昨夜のデモの声は止んでいた。空は白く、風がなかった。居間のほうに目をやると、ベニクラゲの水槽に朝の光が当たっていた。


「昨日より暖かいね」と静は言った。ホースを巻いてから縁側に上がり、ハルの隣に腰を下ろした。手ぬぐいで手を拭く動作が、どこか丁寧だった。


 昼前の光が庭に満ちていた。紫陽花はまだ咲いていなかったが、葉が濃くなっていた。ハルは何かを言いかけて、やめた。言いかけた言葉が何だったか、すぐにわからなくなった。


 隣家から声が届いたのは、そのころだった。


 最初はただの音だった。続いて、それが人の声だとわかった。男の声と、女の声。内容は聞こえなかった——壁と、いくつかの庭の広さが、言葉を消していた。届いたのは声の質だけだった。押しつぶすような、低い声。それに応じる、少しずつ高くなっていく声。どちらも何かを主張し、どちらも止まらなかった。


 母は庭を見ていた。ハルも庭を見ていた。


 しばらくして、声の調子が変わった。言葉の端が割れるような音がして、それから静かになった。静けさが、少し重かった。


「むかし、あなたを研究所に連れて行ったことがあったね」と静が言った。


 ハルはすぐには返事をしなかった。「あった」とだけ答えた。


「設計図に落書きをした」


「怒ったのはあなたでしょう」


 静が少し笑った。「そう。私が怒った」


 ハルは、それがどの研究所だったかを知っていた。世代船の設計に関わる機関だった——その末端にいた、と母はかつて言った。書類を整理したり、数値を確認したりする仕事。それでも、そこにいた。ハルが落書きをした設計図の、どれかはもしかしたら、実際に使われたのかもしれない。


「どんな仕事をしてたの」


「計算の確認だよ。軌道の数値を、別の人が出した数値と照合する。ずっとそれをしていた」


「それだけ?」


「それだけ、といえばそれだけ。でも数値の意味は理解していた。誰がどこへ行くか、ということの数値だから」


 庭の紫陽花の葉が、光を受けて濃く見えた。ハルはそれを見ていた。


「楽しかった?」


 静は庭を見てから言った。「楽しかった。毎日が——大きいものの前にいる感じがした。自分は小さかったけれど、何か大きなことの中にいる、という感じが」


 ハルは頷いた。


「今も進んでるの?」とハルは聞いた。


「進んでいるよ。ずいぶん進んだ」と静は答えた。「私のころとは、もう別のものになってるけど」


 少し間があった。


「あのころ、フェルミのパラドックスをよく議論した」と静が言った。「みんな若かったから」


「フェルミの?」


「なぜ宇宙はこんなに静かなのか、って。宇宙はこんなに広いのに、なぜ誰の声も届いてこないのか。あれだけ星があれば、どこかに誰かいてもおかしくない。なのに——」


 静は言葉を切り、庭を見た。


「なのに、静かなんだよね」とハルは言った。


「そう。文明はどこかで壁にぶつかる。超えられなかった文明は、声を出す前に消える——だから静かだ、という話をよくした」


 静は止まってから続けた。


「その壁が、死ななくなることかもしれない、という説もあった。うまくいきすぎたことが、別のうまくいかなさを生む」


 静はそこで止まった。それ以上を言わなかった。


 その言葉を、ハルは受け取ったまま、何も言わなかった。庭の向こうに、隣家の塀が見えた。声はもう聞こえなかった。さっきまで誰かが激しく言い合っていた場所が、今は静かだった。塀の上に、薄い雲が動いていた。


 遠くからテレビの音が届いた。隣家のどこかの窓が開いているらしかった。「——生存期間制限法に賛成する会が、反対派の事務所に——」


 テレビの音は、続きを言わなかった。


 どこかの窓が、静かに閉まった。


 紫陽花の葉に、光が当たっていた。そこだけが明るかった。それ以外の場所は、白い空の下にあって、ただそこにあった。


 「来年はもう——」と母が夕べ言いかけて止まった言葉を、ハルはまだ持っていた。続きを聞かなかった。聞けなかった、というより、続きはもうわかっていた。わかった上で、聞かなかった。


 静が立ち上がった。「お茶、淹れようか?」


「いい」とハルは答えた。


 台所へ向かう静の背中を、ハルは見た。背が少し丸くなっていた。歩き方が、昔と変わっていなかった。廊下に消えてから、音が聞こえた。水が流れ、やかんが火にかかる音。それだけだった。


 ハルは縁側に残って、庭を見続けた。


 宇宙は静かだ、と母は言った。文明はどこかで壁にぶつかる。死ななくなること——それが壁になるかもしれない。


 ハルは何も考えていなかった。考えようとしていなかった。ただ、葉を見ていた。紫陽花の葉が、風もないのに少しだけ動いた。動いて、止まった。


 居間に目をやると、ベニクラゲが見えた。水槽の中で、傘をゆっくり開いて、閉じていた。開いて、閉じた。それが続いていた。昨日からそうで、おそらく明日もそうだった。


 静がお盆を持って戻ってきた。湯呑みを二つ置いて、ハルの隣に座った。


「寒い?」と静は聞いた。


「寒くない」


 二人は黙ってお茶を飲んだ。湯気が上がって、消えた。

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