夜空の一点
機械の知能が人間を超えてから何十年、不老は当たり前のものになっていた。
母は『卒業』を選ぶ。残された七日間の静かな日々。
ニュースが告げる法案の採決、外で続く声、そして夜空に動くひとつの光。
ずっと夢見てきたものと、いま避けようがないものが、同じ形をしていることを、ある夜、娘は知る。
母の卒業式まで、あと七日だった。
電車の窓に、文字が流れた。「生存期間制限法案、今週採決へ」「各地で抗議活動、十二都市に拡大」——ハルは読まなかった。座席に寄りかかったまま、窓の外を見ていた。都市の縁がほぐれるように、駅を過ぎるたびに建物が低くなり、空が広がった。車内は空いていて、数人が端末を見ていた。誰も話さなかった。
終点の二つ手前で降りた。改札を出ると風が変わった。土の匂いが混じっていた。母の家まで、歩いて十分もかからない。商店街の端を通り、細い路地に入り、生け垣のある家の前を過ぎる。来るたびに、どこかが少しずつ変わっている。看板が変わり、空き地が増え、知らない家が建つ。道そのものは変わらないのに。
玄関を開けると、空気が違った。人が住んでいる家の匂いではあったが、何かが薄くなっていた。靴を脱いで、廊下を歩いた。
台所に入ると、棚の右半分がなくなっていた。食器が消え、調味料が減り、残ったものが奥に整えられていた。ハルはしばらくそれを見てから、コートをハンガーにかけた。
居間に回ると、水槽があった。薄暗い部屋の中で、ベニクラゲが一匹、漂っていた。傘の縁が、ゆっくり広がり、縮んだ。また広がり、縮んだ。光を集めているというより、ただそこにいるだけのようだった。静がこれを何十年も手放さなかった生き物だということを、ハルは知っていた。それ以上のことを、ハルは知らなかった。
「冷蔵庫、見ていい?」
「どうぞ。今日は鍋にしようと思って」
台所から静が出てきた。エプロンをすでに着けていた。ハルより頭一つ分低くなっていた——いつからそうだったか、記憶があいまいだった。
「手伝う」
「じゃあ野菜を切って」
母は下ごしらえをしながら話した。庭の紫陽花が増えそうだということ、先月は雨が多かったということ、近所の猫を最近見かけないということ。ハルは包丁を動かしながら相槌を打った。母の包丁の音は変わっていなかった。まな板の上で規則正しく刻まれる音が、台所に満ちた。やがて鍋が沸き始め、湯気が上がった。静が手を伸ばして、ハルの切った野菜を鍋に入れた。ハルは少し、手を引いた。
「紫陽花、増えたらどうするの」とハルは聞いた。
「切ってしまえばいい」と母は答えた。少し間があった。「でも来年はもう——」
そこで止まった。鍋をかき混ぜる動作に戻った。
ハルは「なぜ今なの」と聞こうとした。何度も。野菜を切りながら、盛り付けをしながら、食卓についてから——喉の手前まで来て、止まった。聞いて、答えを知ったとして、何かが変わるのかどうか、わからなかった。わからないまま、夕食は過ぎた。
食後、静はテレビをつけなかった。二人でお茶を飲んだ。湯呑みの温かさが、手のひらに残った。
ハルは母の横顔を見ていた。目の周りに細かいシワが集まっていた。口元が、かすかに緩んでいた——笑っているというより、ただそういう形に落ち着いていた。こういう顔を、どこかで見た気がする。どこだったかは、思い出せなかった。二人はしばらく、何も言わなかった。
夜、布団に入った。電気を消すと、部屋が暗くなった。
しばらくして、声が届いた。どこかで人々が何かを叫んでいる。何を言っているかは聞き取れなかった。風向きによって、強くなり、消えた。
声は、低く、長く続いた。




