閑話 娘の勝利(ステラドルチェ視点)
私は、走るのが嫌いだ。
人間に鞭打たれるのが嫌いだ。
種付けだって、正直あんまり好きじゃない。
それでも私は、
かつて“走ること”を仕事にしていた競走馬だった。
◇
その日、私の馬房の前がやけに騒がしかった。
足音が多い。
声が明るい。
いつもより、人間の匂いが濃い。
放牧帰りの私は、草を噛みながらぼんやりそれを眺めていた。
――なんだか、落ち着かない。
すると、育て親のおじいが柵の前に立った。
皺だらけの顔で、いつもよりずっと嬉しそうに笑っている。
「ドルチェ! ステラドルチェ!」
自分の名前だ。
私は顔を馬房の外に出して、ゆっくりと耳を動かした。
人間の言葉は、正確には分からない。
なんとなく“意味のかたまり”として感じ取っているだけだ。
でも――今日は、はっきり聞き取れた音があった。
シア。
私の娘の名前。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「お前は素晴らしい繁殖牝馬だよ! なぁ、聞いてくれよ!」
おじいは、私の顔を嬉しそうに撫でながら続ける。
「……あの小さかった黒いのがな。お前の娘のシアが――」
そこで一拍。
私は、無意識に首を上げていた。
「GⅠを勝ったんだぞ!」
……え?
その直後、りんごが差し出された。
甘い匂い。
条件反射みたいに、私はそれに齧りついた。
しゃく。
――あ。
今、なんて言った?
◇
私の娘が。
GⅠを。
勝った?
しゃく、しゃく、と咀嚼しながら、
頭の中で音が何度も反芻される。
シア。
GⅠ。
勝った。
……おじいは、そう言わなかっただろうか?
私は、口の中のりんごを飲み込んだ。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
でも、どうしていいか分からない。
私は鳴かなかった。
跳ねもしなかった。
柵を蹴りもしなかった。
ただ、その場でじっと立っていた。
おじいは嬉しそうにおしゃべりする。
意味はわからないけれど娘を褒めているんだろう。
私は、もう一口差し出されたりんごを齧った。
しゃく。
――生きてる。
その感覚だけが、
はっきり胸に残っていた。
勝ったとか。
GⅠだとか。
正直、よく分からない。
でも。
あの小さくて、賢くて、人間に逆らいもせず、ちゃんと仕事を理解していたあの子が。
壊れずに。
生きて、
まだ走っている。
――それだけで、十分だった。
私は、もう一度だけ耳を動かした。
それを、おじいは「分かってくれた」と勘違いしたらしい。
「よかったなぁ、ドルチェ。お前の娘、立派だぞ」
私は、りんごを噛んだ。
いつもと同じ、放牧地の匂い。
いつもと同じ、夕方の風。
でも――
世界のどこかで、私の娘は、まだ走っている。
それを知っただけで、今日は良い日になった。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
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