閑話 母との別れ
育成牧場へ移動する朝は、驚くほど静かだった。
人間たちは忙しそうに動いていたけれど、放牧地の空気そのものは、いつもと変わらない。
草は青く、風は穏やかで、空はやけに高い。
私は、柵の内側でじっと立っていた。
無口と引き綱をつけられる前の、ほんの少しの自由時間。
――たぶん、これが最後だ。
そう思うと、不思議なくらい胸は静かだった。
「……シア」
低くて、落ち着いた声。
振り返らなくても分かる。
お母さんだ。
私は、ゆっくり首を向けた。
黒い体。
夜を切り取ったみたいな毛並み。
でも、今は少しだけ痩せたように見えた。
……気のせいだと思いたかったけど。
お母さんは、私の前まで来て、ぴたりと止まった。
鼻先が、私の額に触れる。
温かい。
「……行くのね」
「うん」
それだけで、会話は終わってしまった。
でも、終わらせたくなかった。
私は、思い切って言った。
「……私ね。勝つよ」
お母さんの耳が、ぴくりと動いた。
「重賞」
「GⅠ」
「生き残る条件、聞いてきた」
少しだけ、胸を張る。
「私、強くなる」
――壊れない範囲で。
その言葉は、飲み込んだ。
お母さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……あなたね」
声は、怒っていなかった。
「勝たなくていいの」
私は、瞬きをした。
「え……?」
「生きて帰ってきなさい」
それだけ。
重賞の話も、血統の話も、未来の話もない。
ただ、それだけだった。
「……でも」
私は、小さく言った。
「走らないと、いなくなるかもって……」
お母さんの鼻先が、私の頬に触れる。
「それでも」
低くて、強い声。
「あなたは、私の子よ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「選ばれなくてもいい。強くなくてもいい。壊れてまで、生き残らなくていい」
私は、言葉に詰まった。
だって、それは――
父と、真逆の言葉だったから。
生き残る条件。
重賞。
選ばれる。
全部、正しい。
でも――
お母さんの言葉も、たぶん正しい。
「……私」
声が、少しだけ震えた。
「壊れないって、決めた」
それだけは、はっきり言えた。
お母さんは、一瞬だけ目を伏せた。
それから、私の首筋を、ゆっくり舐めた。
「……それなら、いいわ」
その声は、ひどく優しかった。
人間の足音が、近づいてくる。
時間だ。
私は、もう一度だけ、お母さんを見る。
「……行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
それだけ。
でも、その一言に、全部が詰まっていた。
私は、振り返らなかった。
振り返ったら、きっと行けなくなるから。
無情にも扉は閉まって、人間に連れられたお母さんの姿は見えなくなってゆく。
その晩、私はずっとずっと鳴いていた。
泣いていた。
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