29.厩舎の別れ
朝の厩舎は、いつもより静かだった。
人の数は変わらない。
音もある。
なのに――空気が違う。
私は、もう走らない。
それをみんな知っている。
「ほら」
「最後だぞ」
厩務員のお兄さんが2人いつも通りの声で言った。
いつも通り。
……少しだけ、嘘くさい。
ブラシがかかる。
丁寧すぎるくらい。
「毛並み、ほんと良くなったよな」
「最初はボサボサだったよなぁ」
フルル――
(ボサボサで悪かったね)
返事はないけど分かってるでしょ、私の言いたいこと。
首を撫でる手が一瞬だけ止まった。
「……ありがとうな」
それは、調教の時の声じゃない。
レースの前でもない。
もう、“世話する馬”じゃなくなった馬に向ける声。
私は、少しだけ首を下げた。
嫌いじゃなかった。
◇
隣の馬房から低い声がした。
「……行くんだって?」
灰色の。
私の喧嘩友達。
灰色のとは呼んでいるものの育成牧場時代から考えると彼女はだいぶ白っぽくなっていた。
「らしい」
「急だな」
「ね」
一拍。
私たちは、同時に鼻を鳴らした。
「んふふ、理不尽だけど結納品として頑張ってくるわよ!」
――まだ、実感はないけど。
「お前さ」
灰色のが言う。
「ほんと、話題に事欠かないよな」
「才能だから」
「誇るな」
いつものやり取り。
なのに。
今日は、少しだけ間が長い。
「……もう、ここ戻ってこないんだろ」
灰色のの声が低くなる。
「たぶん」
「……そっか」
藁を噛む音。
それから、ぽつり。
「走るとこ、見れてよかった」
私は、少し驚いた。
「……意地悪言わないんだ」
「最後くらいな」
私は、鼻先を柵に寄せた。
「ありがとう」
灰色のがこちらを見る。
「向こうでも無茶すんなよ」
「……それ、誰に言ってる?」
「お前」
即答だった。
私は、笑う代わりに鼻を鳴らす。
「分かってる」
外で、人の声がした。
呼ばれてる。
私は、最後にもう一度だけ言う。
「ねぇ」
「ん」
「今までありがと、ヴェルミルアリア」
普段は呼ぶことのない灰色のの正式名。
ちょっと似合わないくらい綺麗な名前だと思っているのは内緒だ。
灰色のがほんの少しだけ顔を背けた。
「……うるさい」
それで、終わり。
厩務員のお兄さんが来て私に無口をつけて引き綱を引いた。
抵抗せずに歩き出す。
振り返らない。
「またどこかでアクアファーナ」
灰色のが私を正式名で呼ぶなんて、はじめてじゃなかろうか。
……いいお土産をもらった気分だ。
ここは、私が走った場所。
これから走らない場所。
でも――
悪くない厩舎だった。
◇
ありがとう、厩務員のお兄さんたち。
ありがとう、灰色の。
次は――
また、別の役目だ。
※完結まで毎日投稿です。




