27.婚約
部屋には、火の音だけがあった。
暖炉の前。
夜も更け、人払いされた静かな時間。
ジュラは、杯を置いてから何気ない口調で言った。
「アイリス」
彼女は振り返らない。
ただ、窓の外を見ている。
「……アクアファーナのことだが」
その名に彼女の指がわずかに止まった。
「君の言う通り……引退させようと思う」
一拍。
「もう十分、走ってくれた。帝室にとってこれ以上の栄誉はない」
アイリスは、ゆっくりと振り向いた。
「……そう」
声は、落ち着いている。
だが、その奥に潜む熱をジュラは見逃さない。
「それでだ」
ジュラは続けた。
「シトリンの相手として――どうかな」
アイリスの瞳がわずかに揺れた。
「君への結納品にあの子も加えようと思う」
一瞬、空気が凍る。
「……アクアファーナを?」
思わず、そう口にしたのは彼女だった。
ジュラは肩をすくめる。
「宝石でもドレスでも領地でも好きなものを」
それから、静かに言った。
「だが――君は、あの子が欲しいんだろう?」
沈黙。
暖炉の火がぱちりと弾ける。
アイリスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く息を吐く。
「……気づいていたのね」
「当然だ」
ジュラは、微かに笑った。
アイリスの唇がほんのわずかに歪む。
「あんな素晴らしい馬を……本当にいいの?」
問いは、確認ではない。
自制だった。
ジュラは、迷わず頷いた。
「いいとも」
「アクアファーナは、もう走れない。だが――終わったわけじゃない」
そして、はっきりと言った。
「次は――“残す役目”だ」
アイリスの瞳に、はっきりとした光が宿る。
狂気。
歓喜。
そして、執念。
それらを一つに溶かしたような目でとろけるように彼女は微笑んだ。
「……ありがとう、ジュラ」
その声は、恋人に向けたものではない。
運命を差し出された者の声だった。
ジュラは立ち上がり彼女の前に立つ。
「婚約は成立だな」
アイリスは、ゆっくりと頷き、婚約者となった男に静かに口付けを落とす。
その頭の中には、白い愛馬と黒い牝馬とまだ見ぬ未来があった。
※完結まで毎日投稿です。




