26.青毛の牝馬
あの馬を、まともに見た時は本当に驚いた。
確かに美しい。
手入れが行き届いているのも一目で分かる。
この帝国で「良血」とされる母馬の血を実に素直に受け継いだ見事な馬体だった。
皇太子であるジュラの自慢の一頭だ、それも頷ける。
――だからこそ。
本気で走ったシトリンに二馬身差まで詰め寄ってきたことが信じられなかった。
母馬から受け継いだ馬体。
父馬から受け継いだ身体能力と心肺機能。
そして、生まれつきの勝負根性。
正直に言えば。
この牝馬は、血統だけを見ればシトリンよりよほど恵まれている。
シトリンは突然変異だ。
先祖返り――
祖父にあたるあの馬が私に見せた夢の続きを再現するためだけに生まれた存在。
伸びしろは確かにあった。
けれど、育てなければ。
本馬としての自覚を持たせなければ。
王国のぬるいレースを踏み台にし、負けと経験を重ねてシトリン自身が足りないものを一つずつ身につけてきた。
今でこそ、世界一の名馬。
私の最高傑作と呼べる存在だ。
だが――
三歳のシトリンであったなら。
この才能ある牝馬に敗北を喫していただろう。
それだけの力は、確かにあった。
だからこそ。
もう一つ、分かっていることがある。
この牝馬の能力は、もう伸びない。
才能は、十分すぎるほどある。
だが、今のシトリンより速くなることはない。
誰も気づいていない。
――無理をしすぎたのだ。
三歳。
まだ出来上がっていない身体で完成したシトリンに追いつこうとした。
その無謀さが彼女の終わりを決めてしまった。
脚に負担がかかりすぎている。
それでも彼女は、走った。
最後まで。
……あぁ。
本当に、惜しい馬だ。
厩舎の奥は、静かだった。
人の声も歓声ももう届かない。
藁の匂いと馬の体温だけがある。
アイリスは、何も言わずに近づいた。
アクアファーナは、こちらを見ない。
疲れ切った呼吸だけがゆっくりと上下している。
アイリスは膝を折った。
視線は、ただ――脚。
前脚。
後脚。
一本ずつ。
順に。
触れない。
持ち上げない。
ただ、見る。
わずかにずれた重心。
立ち方の癖。
力を抜いているはずなのに逃げきれない緊張。
――あぁ。
やっぱり。
アイリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……よく、ここまで走ったわ」
声は、誰に聞かせるでもなく落ちる。
アクアファーナの耳がわずかに動いた。
アイリスは立ち上がり、今度は白衣の人間たちを見る。
その顔を見れば十分だった。
彼女はもう一度、馬に目を向ける。
その目には、失望も怒りも後悔もない。
あるのは、ただ確信。
――これ以上は、壊れる。
アイリスは、静かに息を吐いた。
「……いいわ」
それは、諦めでも慰めでもない。
決断だった。
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