23.敗北
負けたのは、初めての経験だった。
牝馬だてらに牡馬を蹴散らし、この帝国の競走馬の頂点に立ったこの私が。
女帝と呼ばれる……この私が。
あんなに脚を動かしてもあんなに前へ前へと踏み出しても――
あの馬の後ろ姿しか見えないなんて。
そんなわけ……ある?
――あの白いの、なに?
ゴール板を越えた瞬間、歓声が歪んで聞こえた。
割れるような音。
でも、それは私に向けられたものじゃない。
前を行く、白い影。
最後まで一度も振り返らなかった背中。
呼吸が乱れる。
――おかしい。
脚は残っていた。
無理もしていない。
壊れてもいない。
それなのに。
私は、負けた。
「……アクアファーナ」
チモシーの声が少しだけ低い。
私は、応えない。
応えられない。
視線は、前。
白い馬の、さらに前。
――追いつけない。
そんな感覚、初めてだ。
厩舎へ戻る道すがら人間たちの声が聞こえた。
「……あれがシトリンか」
「強ぇな」
「化け物だろ」
――シトリン。
名前は、どうでもいい。
問題は、あの走りだ。
力任せじゃない。
気負いもない。
ただ、最短で最も無駄なく“そこにいるべき場所”を走っていた。
馬房に入る。
藁の匂い。
水桶の音。
いつもと同じはずなのに胸の奥が妙にざわつく。
「……納得いかない」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
隣の馬房から牝馬にしては低い声が返ってくる。
「だろうな」
芦毛だ。
「アクアファーナ……」
灰色のが珍しく黒いのじゃなくて私の名前を呼んだ。
「お前が負けるとこ、初めて見た」
「……見せたくなかった」
「だろうな」
芦毛は、少しだけ間を置いて続けた。
「でもさ」
藁を噛む音。
「あれ、ヤバかっただろ」
「……うん」
認めるのは癪だったけど否定はできない。
「あの白いの。走りながら、全部見てた」
私は、耳を向ける。
「前も後ろも風も馬群もたぶん……お前の位置も」
胸がきゅっと締まる。
「……私、全力だったよ」
「知ってる」
「初めてだったんだ。全力で走って、追いつけなかったの」
沈黙。
芦毛がぽつりと言う。
「……じゃあさ」
「うん」
「次、どうする?」
私は、藁を踏みしめた。
悔しい。
腹が立つ。
理解できない。
でも。
脚は、まだある。
壊れてない。
終わってない。
私は、息を整える。
「……もう一回、走る」
芦毛が、鼻を鳴らした。
「だよな」
私は、ゆっくりと首を上げた。
あの白い背中。
静かで遠くて、でも確かに“生きている”走り。
――次は。
次は、必ず。
◇
負けるって、こんなに腹が立つんだね。
でも――
悪くない。
だって、まだ走りたいって思えてるから。
※完結まで毎日投稿です。




