18.新馬戦
新馬戦。
今日はちょっとだけ特別な日。
私の初めてのレースの日だ。
私がパドックに姿を現した瞬間、ざわめきがほんの一拍だけ遅れて広がった。
それは歓声でも期待でもなく、もっと曖昧で、もっと正直な音だった。
困惑と失望と、ほんの少しの失笑が混じったような、居心地の悪いざわめき。
「……牝馬かよ」
「小さくねぇか?」
「チモシー、まだこんなのに乗ってんのか」
言葉は、風に乗ってはっきり聞こえるほど大きくはない。
けれど、私はなぜかそれが“私のこと”だとすぐに分かった。
周囲の馬たちは、どれも立派だった。
首は太く、胸は深く、歩くだけで筋肉が波打つ。
ほとんどが牡馬でその体躯は、私より一回り以上大きい。
……なるほど。
これが、場違いってやつか。
でも私は、別に恥ずかしくはなかった。
比べられている、という感覚すら薄い。
ただ、
ああ、また同じだなと思っただけだ。
チモシーは、私の横を歩きながらいつも通りの顔をしていた。
手綱を少しだけ短く持ち、歩調を揃える。
「楽に行こう」
誰に向けた言葉なのか分からない声で、彼はそう言った。
私は、耳を一度だけ動かした。
――うん、分かってる。
◇
ゲート入りが近づくにつれて、周囲の空気が変わっていく。
馬たちの呼吸が浅くなり、
人間の声が少しだけ高くなり、
どこか焦げたような匂いが漂い始める。
緊張と、興奮と、恐怖。
勝ちたい、という匂い。
私は、それを嫌だとは思わない。
でも、それを抱えて走りたいとも思わなかった。
◇
スタートは、悪くなかった。
というより、良すぎもしなかった。
ゲートが開いた瞬間、私は一歩だけ出遅れ、
その次の一歩で、ちゃんと流れに乗った。
四番手。
内ラチ沿い。
前に二頭。
横に一頭。
視界は、きれいだ。
私は、ただ素直に隊列の中に収まった。
向こう正面に入る頃、私はすでにこのレースの“形”を理解していた。
ペースが、ほんの少しだけ速い。
一頭、首を振っている。
別の一頭、呼吸が荒い。
……ああ、これ。
壊れるやつだ。
私は、無意識に、脚をわずかに緩めた。
チモシーの重心が、一瞬だけ前に行きかけて、すぐに止まる。
彼は、何も言わなかった。
たぶん、同じことを考えたんだと思う。
3コーナーが近づく。
前の馬たちが、微妙に膨れ始める。
内は壁。
外は、余裕がない。
――行ける?
一瞬だけ、私はそう思った。
無理をすれば。
本当に少しだけ、無理をすれば。
ここで仕掛ければ、
一気に前に出られる。
勝てる。
たぶん、もっと楽に。
でも、その“少し”が、
あとで、どれだけ重くなるかを私は知っている。
私は、待った。
◇
「詰まってね?」
「終わったろ、あれ」
観客席のどこかで誰かがそう言った。
その直後だった。
外の馬がほんのわずかにバランスを崩した。
ここにいるのは新馬たち、レースに慣れてない馬たちだから当然だ。
少しバランスを崩した。
たった、それだけのこと。
でも、それで十分だった。
――はい、空きました。
私は、そこに脚を置いた。
直線に入る。
前にいた一頭に並ぶ。
その馬の目が、一瞬だけ、こっちを見る。
あ、ごめんね。
私は、抜いた。
残り二百。
外から、もう一頭が来る。
……速い。
一瞬だけ、私は本気を出そうとした。
でも、やめた。
これでいい。
これで、勝てる。
ゴール。
クビ差。
ギリギリ。
◇
引き上げてきたとき、
チモシーは、しばらく何も言わなかった。
私の首を軽く撫でて、
それから、ようやくぽつりと呟く。
「……もっと、楽に勝てたよな」
私は、何も答えなかった。
だって、それは事実だ。
◇
検量室の前。
他厩舎の調教師が、こちらを見て言った。
「チモシー、お前……追ってなかったな?」
チモシーは、少しだけ笑った。
「えぇ。壊したくなかったんで」
その瞬間、相手の顔が変わった。
◇
その夜。
私は、厩舎で干し草を食べながら思った。
――次は、もう少しだけ速くてもいいかもしれない。
でも、それは“今日”じゃない。
※完結まで毎日投稿です。




