18.5閑話 酒場にて
ご指摘いただき、一部誤解を招きやすい表現を修正致しました。
その酒場は、港町の外れにあった。
潮の匂いと、安酒の酸味と、汗の残り香が混じった場所。
壁には古い蹄鉄と、もう色褪せた勝馬投票券が釘で打ちつけられている。
夕方を少し回った頃。
仕事を終えた男たちが、杯を傾けながらどうでもいい話をしていた。
「今年は雨が多いな」
「麦の出来が悪ぃ」
「税が上がるってよ」
誰も競馬の話なんてしていなかった。
――少なくとも、最初は。
カウンターの端で、白髪混じりの男が酒をあおりながら、ぽつりと言った。
「……そういや」
誰も聞いていないと思ったのか、独り言みたいな声だった。
「チモシー、GⅠ勝ったらしいぜ」
一瞬。
酒場の空気が、止まった。
「……あぁ?」
「今なんつった?」
若い男が聞き返す。
「チモシー?」
「誰だそりゃ」
白髪の男は、ちらりと視線を上げた。
「知らねぇのも無理はねぇか」
「ちょい前まで燻ってた騎手だ」
別の客が鼻で笑う。
「こないだのG1なら2歳牝馬のやつか」
「そんな簡単に勝てるもんじゃねぇだろ」
「勝ったんだよ」
白髪の男は、杯を置いた。
「事実だ」
「……どの馬だ?」
今度は、年嵩の男が低く聞いた。
「名前までは知らん」
「青毛の牝馬だってよ。三戦全勝、無敗のG1馬の誕生だ」
――間。
「……は?」
あちこちで、同じ声が上がった。
「牝馬?」
「GⅠを?」
「チモシーが?」
誰かが吹き出す。
「冗談きついぞ」
「あいつがG1勝ったの何年ぶりだよ」
白髪の男は、肩をすくめた。
「俺も最初はそう思った」
「だが、競馬場にいたやつが言ってた」
声が少しだけ低くなる。
「……追ってなかったらしい」
「は?」
「最後の直線だ」
「手綱、ほとんど動いてなかったって」
酒場がざわつく。
「そんな馬がいるかよ」
「夢でも見たんじゃねぇのか」
「いや」
別の客が口を挟む。
「俺の知り合いも言ってた」
「前が詰まったのにいつの間にか外に出てたって」
「出てた?」
「どうやって?」
「知らん」
「誰も分からん」
沈黙。
そして、誰かが小さく言った。
「……目が青かったらしいぞ」
今度こそ、完全に静まった。
年嵩の男がゆっくりと杯を置く。
「青、だと?」
「あぁ」
「深い青だって」
年嵩の男は、しばらく何も言わなかった。
それから、低く呟く。
「……インペラトーレぶりだな」
その名前が出た瞬間、
酒場の空気が変わった。
「青の皇帝……」
「何年前だ?」
「もう、走ってたのは俺が若い頃だぞ」
「その馬の娘だって話だ」
白髪の男が続ける。
「牝系も星の一族だとか」
誰かが苦笑した。
「そりゃ勝つわけだ」
「いや……それでもおかしい」
別の男が、杯を握りしめる。
「血が良いだけなら、いくらでもいる」
「でも、追ってないのに勝つ馬は……」
言葉が続かなかった。
酒場の奥で、若い男がぼそっと言う。
「……次、どこ走るんだ?」
誰かが答える。
「聞いた話じゃ」
「牡馬クラシック、らしい」
――ざわ。
「正気か?」
「牝馬だぞ?」
「そりゃ実際は牡馬牝馬混合レースだから牝馬も走れるけど」
白髪の男が、静かに言った。
「牝馬でも走れる……だからだろ」
誰も、笑わなかった。
杯の音だけが、やけに大きく響く。
年嵩の男が、最後にぽつりと言った。
「……また、とんでもねぇのが出たな」
その言葉に異を唱える者はいなかった。
酒場の外では、
夜風がひときわ冷たく吹いていた。
◇
――知らないところで、私の名前が増えていく。
※完結まで毎日投稿です。




