東の森でスライム狩り
小鳥たちの賑やかなさえずりと、石畳の通りから漂ってくる焼き立てパンの香ばしい匂いで、クラリスは目を覚ました。
安宿『月光の木かげ亭』の軋む木製ベッドの上で、クラリスは勢いよく体を起こすと、パンパンと両頬を叩いて気合いを入れた。
「ふぁぁ……! 快眠! 干し草のマットレスでもぐっすり眠れるなんて、私の身体もすっかり逞しい冒険者仕様になりつつあるわね!」
豪奢な天蓋付きベッドや高級シルクのシーツがなくても、今のクラリスにはこの質素でちょっと埃っぽい部屋が最高の拠点だった。
洗面器の冷たい水で顔を洗い、手早く身支度を整える。そして、昨日脱ぎ捨てて布袋に押し込んでおいた「エメラルドグリーンのドレス」を大事そうに肩に担ぎ直した。
フリルとレースが何重にも重ねられ、本物の宝石が散りばめられた公爵令嬢時代の勝負服。これを抱えて向かうのは、下町の入り組んだ路地裏にひっそりと佇む『金色の天秤亭』だ。
扉を開けると、チリンと古い鈴の音が鳴った。
怪しげな骨董品や用途不明の魔道具が雑然と並ぶ暗い店内に入ると、カウンターの奥で片眼鏡をかけた小太りの店主が、胡散臭そうな視線を向けてきた。
「いらっしゃい……って、なんだいお嬢ちゃん。そんな大きな袋を担いで、うちへ何の用だ?」
「おじさん! これの査定と買取をお願いします!」
クラリスはドン! と布袋をカウンターの上にぶちまけ、中からエメラルドグリーンのドレスを勢いよく取り出してみせた。薄暗い店内が一瞬でパッと華やぐほどの眩い輝きに、店主は片眼鏡をずらして目を丸くした。
「……おいおいおい、冗談だろ!? これ、王都の最高級サロン『セルフィーユ』の特注縫製じゃねえか! 生地は極上のシルク、刺繍に使われているのは本物の精霊銀線、胸元の装飾は一級品の翡翠……! 大貴族のお嬢様が夜会で着るような代物だぞ! どこで手に入れた!?」
「昨日まで私が着てたやつです! 訳あって冒険者に転職したので、全額現金化したくて!」
「はぁ……!? こんな国宝級のドレスを現金化だと……!? 狂気の沙汰だぞ、おい!」
店主は呆れ果てて額を押さえたが、前世のゲーム知識を持つクラリスは知っていた。この『金色の天秤亭』の店主は、見た目こそ怪しいが買取額をごまかさない「良心的な隠し優良NPC」なのだ。
「おじさん、買い叩かないで適正価格で買い取ってくれるって信じてますからね!」
「……チッ、足元を見やがって。いいか、本来ならオークションに出せば金貨数十枚にはなる代物だ。だがうちみたいな零細店じゃ、今すぐ出せる現金の限界がある。……金貨5枚、銀貨20枚。これ以上は店が潰れちまう」
「交渉成立! 買い取ってください!」
ジャラリと手渡された、ずっシリと重い革製のコイン袋。
一瞬にして大金を手に入れたクラリスの口元が、むふふと歪んだ。
(金貨5枚と銀貨20枚……! 駆け出しのFランク冒険者が血汗流して半年かけて稼ぐ額を、一瞬で確保しちゃったわ! これで序盤の装備整え放題、ポーション買い放題じゃないの……! 買い取りシステム万歳!)
大金を手に入れ、ホクホク顔で飛び出したクラリスは、そのまま大通りに面した老舗武器屋『鋼の誓い亭』へと直行した。
店内には、砥石と火薬、そして鈍い鉄の匂いが充満している。壁や棚には所狭しと重厚な剣や大斧、弓矢などの武具が並べられていた。
「いらっしゃい! どんな武器をお探しで?」
「初心者用の『鉄の双剣』と、回復ポーションを10本ください!」
「双剣かい? お嬢ちゃんみたいな華奢な子が双剣とは珍しいな……。扱いが難しいし、初心者には片手剣かレイピアあたりを勧めてるんだが」
店主は少し眉をひそめながらも、奥から軽量で扱いやすく研ぎ澄まされた一対の短い鉄の剣を出してくれた。
手に取った瞬間、しっくりと手になじむ重み。クラリスの頭の中で、ゲームのステータス画面が鮮明に浮かび上がる。
(ふふふ、店主さん……普通のプレイヤーなら『初心者は扱いやすい片手剣』を選ぶでしょうね。でも、この『フォル・アモーレ』の初期ビルドにおいて、私の【AGI(敏捷)】の初期補正値は全キャラ中トップクラス! 双剣は攻撃力こそ低いけれど、攻撃回数が片手剣の2.5倍。つまり、ヒット数に比例してダメージが乗る『弱点特攻』や『属性攻撃』と組みあわせれば、序盤最強のDPS(時間あたりダメージ)を叩き出せる壊れ武器なのよ!)
「これにします! それと、店主さん。棚の奥にあるあの埃をかぶった『微光の砥石』も買い取りますね!」
「えっ……!? あ、あれはただのハズレ商品で、切れ味が上がるわけでもねえ骨董品だぞ……?」
「いいんです! これで代金を支払います!」
(ふふん! 誰も買わないあの『微光の砥石』は、実は双剣に塗ると1時間だけ『光属性付与』の効果がつく隠し消耗アイテム! 誰も気づいていないマイナー知識を活かせるのがガチ勢の醍醐味よね!)
銀貨3枚とポーション代、そして捨て値の砥石代をサッと支払い、念願の初期装備を手に入れたクラリス。腰の両側に二本の剣を鞘ごと装着すると、テンションは最高潮に達した。
そのまま下町の中央にある「冒険者ギルド」へ向かい、受付でFランク冒険者の登録手続きを済ませる。もらった木製の冒険者証をギルドの掲示板の前で掲げ、クラリスはむふーっと胸を張った。
「よしっ! 資金確保OK、最強の初期ビルド準備完了、冒険者登録も済んだ! となれば……行くっきゃないでしょ、いざ初狩りへ!」
◇ ◇ ◇
クラリスが向かったのは、王都の東側に広がる緑豊かで広大な「東の森」だ。
ここは初心者冒険者が最初に訪れる定番のダンジョンエリアであり、討伐対象は言わずと知れた低級モンスター、スライムである。
だが、クラリスは森の入口付近でうろうろしている他の駆け出し冒険者たちを横目に、迷いなく森の奥にある「特定の木かげ」へと突き進んだ。
(ふふふ……みんな入口付近でたまに湧くスライムを数人で取り合っているわね。甘いわ! この『フォル・アモーレ』には、マップの読み込みバグを利用した『効率放置狩りスポット』……通称【湧き潰し湧き(スポーン・リセット)】のポイントが存在するのよ!)
日陰になった大きな大木の前で立ち止まったクラリスは、さっそく先ほど買った『微光の砥石』で双剣の刃をキュッキュッと磨き上げた。刀身がかすかに淡い白光を放ち始める。
ジャキンッ! と双剣を交差させて構えると、木の根元からプルプルと震える青い球体——スライムが一気に3体同時に湧き出した。
普通なら、初心者冒険者はスライムの柔らかく弾力のある体に剣を弾かれ、一頭討伐するのにも数分かけて苦戦する。だが、クラリスはこのゲームを何百時間もやり込んだ筋金入りのガチ勢だ。
(スライムの物理耐性は90%カット! 普通に切っても刃が弾かれるだけ。だけど……スライムの体の中央よりやや右寄り、透けて見える半透明の『核』! ここは光属性が弱点で、かつ物理耐性が0になる絶対弱点!)
「そこっ! てやっ!」
ザシュザシュザシュンッ!!
高い【AGI(敏捷)】による目にも留まらぬ踏み込み。光を帯びた双剣の刃が、まるで豆腐でも切るかのように3体のスライムの核を正確無比に一瞬で撃ち抜いた。
パァン! パァン! パァン! と、弾けるような小気味よい音が連続で響き渡る。
一瞬で消滅した3体のスライム。残されたのは、討伐証明であり換金アイテムでもある『青の魔石』が転がり落ちる音だけだ。
(そして、このポイントは核を破壊して5秒以内に次の場所に移動すると、即座に背後の草むらに次のスライムが確定スポーンする……!)
クラリスは振り返りざまに、一切の無駄がない洗練されたステップで次の獲物へ躍り出た。
「はい次! 1秒で1個! 2秒で2個! 乱舞技でハイスコア更新しちゃうわよー!」
ザザザシュッ! パァン!
ザザザシュッ! パァン!
まさに文字通りの作業(効率プレイ)。普通の冒険者が1日かけて数個手に入れるのが限界の魔石が、クラリスの周囲ではまるで雨のようにドロップしていく。
「高すぎる【INT(知力)】で敵の行動パターンを完璧に先読み! 【AGI】の双剣連撃で弱点乱舞! 知識さえあれば、Fランクの私でもスライムにとっては『歩く天災』以外の何物でもないわね!」
たった30分で、用意していた大きな革袋はジャラジャラと音を立てる青の魔石で満杯、いや溢れんばかりに膨れ上がっていた。
「ふふふ、楽勝楽勝! この調子で隠しボスエリアの手前まで進んで、さらに効率よくレベル上げと資金稼ぎをしちゃおうかしら〜!」
◇ ◇ ◇
二、三時間ほど無心で双剣を振るい続け、魔石の山を築き上げていたクラリスだったが、ふと立ち止まった時には周囲の空気が少し変わっていた。
(ふぅ……! 夢中でスライムを狩りまくっちゃったわ。そろそろ一度ギルドに戻って換金しようかしら)
そう思った直後、背後の草むらがガサガサと大きく揺れた。
現れたのは、またしてもスライムだ。見た目も大きさも、先ほどまで何十匹と狩ってきた青いプルプルの個体と何も変わらない。
(あら、最後に一匹お見送りに来てくれたのね。サクッと核を穿って終わらせましょ!)
頭の中で完璧な攻撃ルートを描き、クラリスは勢いよく地面を蹴って一歩を踏み出した。
——しかし。
「あれ……? うそ、体が……重い……!?」
思い描いた俊敏な踏み込みが、全くできない。足が鉛のように重く、視界がぐらりと揺れた。
(しまっ……! 夢中で双剣を振り回しすぎて、スタミナを完全に使い果たしてた……!? 体力切れで【AGI(敏捷)】のステータス補正が落ちてるんだわ……っ!)
いくら前世の知識と高い【INT(知力)】でスライムの核の位置が見えていても、それを素早く撃ち抜くための【AGI】が低下していては、ただの鈍く重い体でしかない。
プルンッ! と勢いよく跳ね上がった普通のスライムが、回避行動の取れないクラリスの目の前まで迫ってくる。ただの低級モンスターとはいえ、無防備な顔面に体当たりを喰らえばひとたまりもない。
(まずい、避けるだけの【AGI】が残ってない……! この体勢じゃ相打ちすら無理……っ!)
迫りくる青い球体。
万事休す——絶体絶命の危機に、クラリスはギュッと目を瞑った。
——けれど、いつまで経っても衝撃は来ない。
「?」
クラリスは呆然と目を開けた。
青い体液が霧となって消えていく中、そこに立っていたのは——漆黒の甲冑を身に纏い、手にした宝剣をチャキンと美しい動作で鞘に収める、一人の男の背中だった。銀色の髪が、森の風を受けてふわりと揺れている。
(え……? 嘘でしょ……? この剣技、この圧倒的な圧……)
静かに振り返った男の顔を見て、クラリスは息を飲んだ。
氷のように冷たく澄んだ、紫紺の瞳。鋭い目元。
学園でマリアを巡って何度も険悪に対立し、自分に冷酷な視線を向け続けていた相手——宮廷騎士団長ジルベール・ミラーその人だった。
ジルベールは冷徹な眼差しで、地面にへたり込むクラリスを見下ろすと、低く太い声で吐き捨てるように言い放った。
「……相変わらず無様だな、クラリス・ヴァルハイト。いや、今はもうただのクラリスか。」




