ジルベールの苦難2
鉱山都市ゴルゾの夜は早い。
無骨な石造りの街並みは陽が沈むと急速に冷え込み、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。鍛冶屋の黒煙も消え、遠くで風が岩肌を吹き抜ける低い音だけが響いていた。
セキュリティのしっかりした高級宿屋の一室。クラリスが旅の疲れからベッドで静かに健やかな寝息を立て始めたのを確認すると、俺は静かに部屋の扉から離れ、自分の寝室へ向かった。
昼間、街のギルドで情報収集を行っていた際、受付の男から「バローネの商会経由で、お前宛てに届いていた」と密かに渡された一通の文書——蝋で厳重に封印された書簡を、俺は懐から取り出した。
ろうそくの小さな炎が揺れるテーブルで、俺は無言で封を破る。
羊皮紙に記されていたのは、俺が誓いを捧げた今も変わらぬ主君——王都の昔からの親友……クラウディオ王子からの、切迫した密書だった。
『至急報告せよ。クラリス・ヴァルハイト追放以降、王都の行政・政治機能は深刻な停滞と混乱に陥っている。各省庁の予算編成および法案策定において、彼女の卓越した頭脳と処理能力に依存していた部分があまりにも大きすぎた。追放は不要な混乱を招く暴挙であった。直ちに彼女の身柄を確保し、政治を回させるべく王都へ連れ戻せ。追っ手として『影』を現地へ派遣した——』
「……なんということだ」
俺の指先が、羊皮紙を強く握りしめる。
激しい葛藤と揺らぎが胸を突き上げていた。
(国を動かしていたのは……クラリスだったというのか? 彼女がいなくなっただけで、あの王都の政治が機能不全に陥るほどに……)
驚きとともに、胸の奥から湧き上がる深い疑問。
クラリスは、驚異的な洞察力と戦闘知識を持ち、無駄のない判断で俺を導いてくれている。王都の報告書が示す通り、彼女が類稀なる聡明な頭脳の持ち主であることは、この旅で嫌というほど実感していた。
(……ならば、なぜだ? なぜそれほどまでに優秀な彼女が、学園であのような愚かな振る舞いをしたのだ? なぜ自ら追放されるような真似を……?)
疑問は深まるばかりだったが、それ以上に俺の胸を苛んだのは、己の信条との苛烈な衝突だった。
手首に伝わる、かすかな体温。
袖を少しめくると、そこには先日クラリスから手渡された『紫水晶の護符』が、妖艶で静かな光を放っていた。
『あんたにここで死なれたら、私が困るの!』
『これからもずっと一緒にいたいし!』
『私のために自分を大切にしなさい!』
脳裏に蘇るのは、海底ダンジョンの激流の中、己の身を挺して自分を庇い破顔した、あの少女の真っ直ぐな瞳と声。
「……ッ」
(いや、俺はマリアが好きなんだ。たとえマリアへの恋心を忘れられたとしても、マリアをいじめたあいつは許せない……!)
けれど、マリアを思い出そうとすればするほど、ダンジョンに目を輝かせてはしゃぐクラリスの笑顔が鮮明に浮かび上がってくる。
主君への忠誠心と、マリアへの義務的な恋心。そして、胸の底で膨らみつつあるクラリスへの焦がれるような想い。矛盾する感情が頭の中でぐしゃぐしゃに絡み合い、俺はテーブルに額を押し付けて荒い息を吐いた。
その時だった。
ドンッ……!!
静まり返った宿屋の廊下を揺らすように、隣の部屋——クラリスの部屋から、重いものが床に倒れ込むような鈍い物音が響いた。
「……!? クラリス……っ!?」
思考の迷宮から引き剥がされるように、俺は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、全速力で部屋を飛び出した。
鍵のかかっていない扉を勢いよく押し開ける。
「クラリス……ッ!」
そこに広がっていたのは、凍りつくような光景だった。
「……ハぁ……ッ、ハぁ……」
床の上に、力なく横たわるクラリスの姿。
その頬は真っ赤に熟した果実のように火照り、可憐な銀髪が額に汗で張り付いていた。苦しそうに肩を上下させ、薄く開かれた紫の瞳は熱で潤み、焦点がまったく定まっていない。
「おい、しっかりしろ……! クラリス!」
俺は慌てて駆け寄り、その身体を両腕で抱き起こした。
腕の中に伝わってきたのは、戦闘時の俊敏さからは信じられないほど華奢な体温——そして、肌が焦げるような凄まじい高熱だった。
「ん……じ、ジルベール……? あれ……おかしいな、身体が……全然、動かなくって……最近ずっと調子悪かったからな……」
うわ言のように呟きながら、クラリスは苦しげに熱い息を吐き出し、俺の胸元にふらふたと頭を預けてきた。
この状況に一瞬ドキリとした自分を叱責する。
「なぜ、調子が悪いことを早く言わなかった!」
そう言いつつも、なぜ自分も気づけなかったのかと歯を食いしばりながら、俺は彼女の身体を優しく抱き上げ、ベッドの上へと寝かせた。すぐに冷たい水を手配し、濡らした布を何度も取り替えて額を冷やす。
だが、熱は下がるどころか勢いを増し、クラリスの意識が朦朧としてきていることに気がついた。
「おい、大丈夫か! クラリス、クラリス!」
「……んで? お母さん……」
どうやら夢を見ているようだ。
普段のハキハキとした口調とはまるで違う、幼く、壊れそうなほど細い声。
クラリスはうなされながら苦しげに首を左右に振り、ぎゅっと自分の胸元を掴みしめた。
「もう……誰の着せ替え人形にも……なりたくない……っ。お茶会も、マナーも……決められた運命も……全部……っ」
「クラリス……?」
「私……ただ……たかっただけ……なのに……っ」
ポロポロと、熱く透き通った涙が、赤く火照った彼女の頬を伝って落ちていく。
「本当は……ずっと、怖かった……っ。一人は、怖かった……。スライムも……クラーケンも……一歩間違えたら死んじゃうって……本当は、すごく……凄く怖かったんだよ……っ!!」
溢れ出す本音。
高飛車な悪女でもなく、かっこいい冒険者でもない。
17年間、公爵家という籠の中で抑圧され続け、死と隣り合わせの冒険に必死でしがみついていた、ただの一人の可憐で繊細な少女の叫びだった。
「……ッ!!」
俺の胸の奥で、何かが激しく弾けた。
彼女が流す涙が、頬を伝う一滴が、俺の心を刃のように鋭く貫く。
いつも強がり、ニヤリと笑いながら無茶な攻略をして見せていたのは、恐怖を打ち消すためだったのか。
どれほどの孤独と恐怖に耐えながら、あの華奢な足で暗闇のダンジョンへと突き進んでいたのか。
「……バカが」
俺の手が自然と動き、彼女の頬に伝う熱い涙を、親指で優しく拭い去っていた。
そして次の瞬間——俺は抑えきれない猛烈な衝動に突き動かされ、熱に震える彼女の華奢な肩を、折れてしまわないよう愛おしそうに強く、強く抱きしめていた。
胸の中に収まるその身体は、驚くほど軽くて、儚かった。
こんな小さな体で、彼女はどれだけのものを一人で背負い込んできたというのだ。
(王命? 忠義? そんなもの、どうでもいい……!)
脳裏に浮かんでいた迷いや葛藤が、いま完全に吹き飛んだ。
この手で守りたい。
もう誰にも、この少女の笑顔を奪わせない。
俺が、このジルベール・ミラーが、己の命と剣を懸けてこの女を守り抜いてみせる。
「俺がいる……。もう、お前を一人にはさせない。恐怖からも、過去からも……俺がすべてお前を守り切る」
俺の腕の中で、クラリスはかすかに毒気を抜かれたように息を吐くと、安心したように俺の胸元に顔をうずめ、静かに深いまどろみへと落ちていった。
冷たい月の光が差し込む部屋で、これが恋なのかはまだわからないし、何よりマリアへの恋情はまだ残っている。けれど、俺は抱きしめた腕の力を緩めることなく、ただ一途に彼女の体温を感じ続けていた。
手首の紫水晶が、二人の絆を祝福するように、暗闇の中でどこまでも温かく輝いていた——。
クラウディオ殿下
密書は確かに受け取った。しかしながら、当人を直ちに王都へ連れ戻すという判断には断固として反対する。
知っての通り、クラリス・ヴァルハイトは周囲を欺き、マリア様を追い詰めた卑劣で害悪な悪女だ。その身勝手な本性は今も変わっておらず、反省のの色すら見せていない。このような悪女を今さら王宮へ戻せば、再び内政を混乱させ、王家の威信を根底から失墜させるだけに終わるだろう。
己の仕で招いた混乱を拭うために、あの悪女の力に頼るなど愚の骨頂であると考える。
ジルベール・ミラー




