56 最後のあがき
シンカー王国は、大陸の南端に位置する小国ながら、塩とコバルトの輸出で成り立つ商業国であり、他の大陸間の遠洋航海にとっては重要な拠点となっている。
冬が終われば、貿易船が出入りし商業活動も活発化するだろう。
だが、人口多くの生贄を必要とする召喚術を繰り返し試すとなると、シンカー王国の国力を大きく削いでしまう。
ゴルドベルク王のヨシュアから綾子達への『指示』は、召喚術の阻止を最優先とする、といったものだ。
召喚術成就を防ぐためならば、人的な犠牲もやむなしという非情な決断である。
「やってやろうじゃないの……ブチ壊してやるわよ、召喚術なんて」
馬車の中でひとり呟いた綾子の直ぐ側に、不意にアシュタロスが現れる。
『綾子、わかったぞ』
「どこ? どこで召喚術なんてやってんの?」
『奴らがいるのは、大魔道士の小娘がいた村、マシッツだ。例の子供がいたという地理的なつながりを当てにしたのだろう。だが結論から言えば効果は無い。相変わらず分の悪い賭けを繰り返しているな。先程も術の発動が確認できた。この世界の壁を壊す時に生じる次元干渉の余波が感知出来た。おまけに干渉を仕掛けた上位世界は吾輩の世界、つまり』
「……つまり?」
『地獄だ』
ぴくり、とサブの片眉が上がり、綾子の口からは『ぎりぃ』という歯ぎしりの音が漏れた。
『上位次元の世界である地獄を通じて、同次元の他の世界への干渉を試みているようだな。まったくバカなことをしたものだ。上位次元の世界の住人全てが、吾輩のように慈悲深く理性的であるとは限らん。むしろ、この次元の存在など吾輩から見れば虫ケラ以下だ』
「ずいぶん言うわね。アシュさん、遠慮とかいう言葉知ってる?」
『知らん。貴様らとて地面にいる目に見えぬダニを踏み潰したとて気にも留めまい。それと同じだ。いずれにせよ、貴奴らがやっているのは、眠っている虎の尾に繰り返しちょっかいを掛けているようなものだ。虎が眠ったままでいる内にこっそり召喚をするのならばよかろうが、わざわざ好き好んで虎を起こして頼み事をしようと試みている。下手をするとこちらの世界そのものを滅ぼすぞ』
「ちょっと何よそれ! 危ないんじゃないの!?」
『危ないとは、綾子にしてはずいぶんと穏当な表現ではないか』
「表現はこの際どうでもいいのよ! ったく……アシュさん、まずは現地の情報を詳しく調べて! サブ、馬が可哀想だけどもっと飛ばして!」
「はいお嬢」
御者席に座るサブが馬の知りにムチを入れると、馬車は盛大に揺れながら街道をかなりの速度で走り始めた。
『どれ、現地を遠視してみる。……紫の法衣を来た男がひとり、僧形のものがざっと見て200はいる。それにエーテル虫とかいう醜い虫もいるな。亡骸も多く転がっている。既に何度も術を試みたのだろうな』
「よし、わかった。とりあえずアイツら殺すわ。スミレちゃんを連れてこなかったのは正解だったかもしれないわね。あの子には汚いオトナの世界なんて、まだ早いわよ」
雪が解けて少しばかりぬかるんだ道を、凄まじい速度で走る馬車を巧み操るサブの腕前は、既に本職の御者を凌ぐほどのものである。
3人が目指す先、マシッツの村の教会跡では、紫の法衣の男が怪しげな呪文を繰り返していた。
彼の直ぐ側には、既に息絶えて腐臭を放ち始めているエーテル虫と、多くの人間の亡骸が無造作に放置されている。
「あ、アーロン阿闍梨、もう生贄に捧げる者が残り2回分しかおりません」
緑色の法衣の若い層が、疲れ果てた顔で紫衣の高僧に歩み寄ってきた。
累々たる屍のいくつかは腐敗し始め、あたりには死臭が漂い始めている。臭いにつられた魔獣に襲われた僧も2人や3人では済まない数になっている。
指導者であったコーネリアス大僧正を失い、もはや己の正気すら失ったような血走った目を見開き、大僧正の一番弟子と噂されたアーロンは怪しげな儀式を繰り返していた。
師コーネリアスが残した僅かな手記を便りに、何度も召喚術を起動してきた。
次元の壁に穴を開けられたのはわずか2回。次元の向こう側から何かを引き寄せられたのはそのうち1度のみだ。
引き寄せたものは、ミミズよりも若干大きい程度のヘビ一匹である。そのために、剣の派閥の僧180人が命を落とし、捉えていたエーテル虫6匹を無駄死にさせることになった。
「ほう、あと2回も試せるのだな」
アーロンの言葉に、若い僧は半ば絶望したような青ざめた顔で俯いた。
このままこの場にいれば、確実に次か、その次の召喚術で生贄になるであろう。
若き僧、大律師スレイルもかつては、召喚術は正義であると心から信じていた。
小国であるシンカー王国をサンサルバシオンによる干渉から守るため、そして商業国家としてより発展を遂げるために、防衛力としての召喚勇者は必要不可欠であると、そう考えていた。
全ては国を守るため、それはすなわち絶対の正義であると、心の底からそう考えていた。
だが、今スレイルの眼の前には、本来守るべきであった国の民の屍が数え切れないほど打ち捨てられ、そのうちいくつかは魔獣の餌食となって食い荒らされている。
「アーロン阿闍梨……私たちは、本当に正しいのでしょうか……」
「正しい。何を迷うことがある、我々は、正義を行っているのだ。犠牲はやむを得ん。国を守るための礎となったのだ、彼らも満足だろう」
高僧アーロンの言葉は、まさしく狂信者のそれであった。
どこか焦点の合っていない目をカッと見開き両手を大きく広げ怪しげな呪文を唱え始める。
「さぁ! 観測者よ! 天に帰った我が師コーネリアス大僧正よ! ご照覧あれ、これこそが我らの術! 彼岸より此岸へ! 勇者よ来たりませ!」
アーロンの眼の前で、何も無い空間に亀裂が入る。
スレイルの全身から力が抜け、体中の毛穴から生体エーテルが吸い出されていく。
「あ、阿闍梨、何故、私まで……」
若き大律師は紫衣の僧を見上げ呟いた。
だが、剣の派閥において最高の位階にある僧、アーロンの目は虚空に浮かぶ亀裂を瞬きもせずに見たまま、息を引き取る直前の若き弟子に気付くこともなかった。




