54 もどかしい
突如魔導伝書を手にドアを開けたサブに、妻のエミリアが呆れたような目を向ける。綾子は悠然と腕を組み、珍しいものを見るような表情でサブの顔を見上げた。
「どうした? 何よそんな慌てて。お祖父ちゃんは何て?」
サブが手にした伝書を受け取った綾子は、サブの様子にも動じること無く、巻物状の書簡を丁寧に開く。
「シンカーの、剣の派閥の残党がやりやがった! 召喚術を実行したらしい!」
「あんっ……の馬鹿ども!」
思わず綾子は勢いよく立ち上がる。菫も立ち上がろうとしたが、エミリアがそっとその体を押さえ、暖かい毛布を身体にかける。
「スミレは無理をするな。本調子ではないのだろう。我々も発情期には魔法が上手く使えなくなる。エーテルの流れが乱れるからな。こういう時は大人しく、仲間を信じて待つものだ」
優しくそう話すと、菫の直ぐ側で座ったまま、エミリアは夫を見上げた。
「行って来い旦那様。生まれてくる子のためにも、少しでも憂いを無くして来るのだ」
「あぁ、任せろ」
「よし、とりあえずヨシュア陛下んとこ言ってハナシつけるわよ。サブ、支度して」
「すぐにでも行けますぜ、お嬢」
「んじゃ行くわよ! エミリアさん、スミレちゃんのことお願い! あとゴメン、旅支度お願いして良いかな」
「うむ、任された。安心して行って来い」
「ま、ま、ま、待って、わた、わ、私も」
強引に身体を起こそうとする菫を、再びエミリアの大きな手が推し止める。
「聞き分けろスミレ。心配なのはわかる、だが信じて待つのも女の器量というものだ」
「そうよスミレちゃん。あなたは待ってなさい。でも……そうね、それじゃスミレちゃんの変わりに、アシュさん貸してくれる?」
『我輩を気軽に貸せとは、随分と不遜な物言いではないか。だがキライではないぞ』
「ありがとアシュさん、あなたスミレちゃんの名代なんだから、キッチリ働いてもらうわよ」
『うむ。我が主スミレよ、ここは吾輩に任せておくがいい』
にや、と邪悪な笑みを浮かべた大悪魔は、相変わらず血色の悪い顔を綾子に向けて傲然と立ち上がる。
『さぁ行くぞ綾子、吾輩が感知した限り、まだ貴奴らは召喚術に成功しておらん。だが度々試みているようだからな、そのうち本当に召喚してしまうかもしれん』
「え、アシュさんそんなこと分かるの? 何それもっと早く言ってよ!」
『吾輩も我が主スミレの仮説がなければ感知出来るなぞ思いもしなかった。だがな、これで吾輩が召喚を感知出来たら、スミレの仮説が正しい事が証明されることになる。ククク……素晴らしいぞ、かつて聖人と呼ばれた者たちも到達し得なかった知の深淵に至ったのが我が主スミレであったとはな。コレだけでも束の間とはいえ人間を主とした甲斐があるというものだ』
アシュタロスは宙に浮いたまま、そしてサブと綾子はすっかり乗り慣れた馬に乗ってヨシュア王が住む王宮へと急いだ。
リベルタドールの面会要求は、ほぼ最優先事項として王に伝えられる事になっている。この日も、急な要求ではあったがすぐにヨシュア王との面会が取り付けられた。
「なるほど、承知しました。ではすぐにシンカー王国へ向かって下さい。成功率が低いとは言え、召喚術が実行されたのであれば、まぐれ当たりでも召喚が成功してしまう恐れがあります。そうなると剣の派閥が勢いを取り戻してしまうかも知れません」
「わかったわ。それじゃあサブ、早速行くわよ!」
「はいお嬢!」
まだ雪が残るゴルドベルク王都から綾子、サブ、そしてアシュタロスの3人が出発したのは、この日の昼過ぎのことである。
ダンタン中将邸で留守番となった菫は、生理中の情緒不安定のせいか、いざというときに身動きが取れない自分の不甲斐なさを悔やむせいか、菫が膝をかかえ泣きべそをかいていた。
「そう気に病むなスミレ、こういうこともある」
「だ、だ、だっ、だって、わた、わたし、私、あや、あ、あっ、綾子、さん、に、た、た、た、頼っ、て、ば、ばっかりで」
「今は人を頼るべきタイミングだった、ただそれだけだ。生きているとそういうこともある。私だってそうだ。腹の子がなければ、私も旦那様と共に馳せ参じていたところだ」
ずび、と鼻をすするスミレの髪を、エミリアの大きな手が優しく撫でる。
「だがな、綾子も何を優先すべきかがわかっているからこそ、スミレをここに残したはずだ。考えても見ろ、剣の派閥とやらが未だに活動しているとしたら、奴らが狙うものがあるだろう? 道標とやらだ。母上の元にいるリサがそうだな。それに忘れてはおらんか? 私の腹にいる子も、拳王大河内佐武郎の子だ。この子も道標となりうるだろう」
スミレの大きな目が見開かれ、エミリアの下腹に向けられる。
「私は身重とはいえ、一人で身を守る事もできるが魔法は苦手だ。そんなときに賢者がそばにいてくれれば、これほど心強いことはない。綾子も旦那様も、その事を知っているからこそスミレをここに残したのではないか?」
「……わ、わた、わた、私、私が、エミ、エ、エミリア、さん、を?」
「あぁそうだ。頼りにしているぞスミレ。だからもう泣いてくれるな。私と共に腹の子を守ってくれる賢者がいつまでも泣いていては、万が一ここに剣の派閥とやらが現れたときに戦えんではないか」
しばらくエミリアを見上げていた菫は、手の甲でぐしぐしと涙を拭うと、泣き腫らした目を再びエミリアに向け、大きく頷いた。




