36 賢者の気付き
須藤誠の心臓が鼓動をやめると同時に、エーテル虫の脚もすべて動きを止めた。
広間に充満していた禍々しい雰囲気は消え去り、元の瞑想の場の清浄な空気が戻りつつあった。
「アンタも、恨むなら私一人にしなさい。誰も彼も憎んで、世間を恨んでってやってたら疲れるわよ。間違ってもスミレちゃんやサブを恨まないようにしなさい」
綾子は巨大なエーテル虫の身体から飛び降りると、ドスについた緑色の血を倒れている僧兵の袈裟で拭い、低い声で吐き捨てた。
「……恨んだりしない……須藤くんは、楽になりたがってた……それくらい分かってたわよ……ごめんなさい、貴方は何も悪くないのに」
「まったくよ。もうちょい感情を制御できるようになりなさいよね」
綾子はドスを拭って鞘に収め、悠然と祖父浩二の元へと歩み寄った。
「終わったわよ、お祖父ちゃん。アヤミさんも、もう大丈夫よ」
「……ネイオミです……そ、それであの、エーテル虫が同化していたのは、あれはどなただったんでしょうか」
「あぁ、私たちと同郷、元勇者の……武藤だっけ?」
「須藤くんよ」
「あぁそうそう、それ。とりあえずエーテル虫とやらも片付いたし、ひとまずは勇者召喚は少しは先延ばしに出来たんじゃないかしらね」
「そうなればいいが……その赤ん坊の居場所はまだわからんのか?」
浩二は眉間にシワを寄せ腕組みをするが、その問いに答えるものはいない。
沈痛な面持ちの藍子を連れて、一行は地下室から地上へ続く階段をゆっくり上がっていく。
「なぁ権中僧正、剣の派閥ってのは全部で何人ぐらいいたんだ」
不意に口を開いたのは、まだ難しい顔をしている浩二である。
「シンカー僧院内部だけでも、ざっと2000はいたかと思います。僧でないものを含めると、王都だけでもゆうに1万は超えます」
「えっ、そんなに居るの?」
予想外の数字に、綾子だけでなく菫もサブも、そして藍子も目を剥いた。
「この王都の人口はおよそ3万ほどですが、市民の中にも剣の派閥に賛同するものはいます。ただ……市民の中の剣派は、自分や自分の家族、自分の大切な人が生贄に選ばれるかも知れないということを考えていないのです」
市民の中にいる剣の派閥の者たちは、ネイオミの言葉通り深く考えずに賛同している物が多い。
国を守るためには多少の犠牲は不可欠だ、そう声高に叫びながらも、その『多少の犠牲』が自分や身の回り、近しい者になる可能性に目を瞑っているようなものだ。
「これまでは、グランデルベルグなどのどちらかと言うと小都市、それも貧しい小都市を狙って生贄を集めていたようです……中には、生贄に捧げられたものが多すぎて、無人になった街もあると聞きます。ですが、笹川さん達百八龍の活動で、剣の派閥は生贄の確保がかなり難しくなりました。そのために、召喚実験を行える機会そのものが減ったんです。だからこそ、確実に強い力を持つものを呼び寄せるために、『道標』となる子供を攫って、さらにエーテル虫も用意して……」
「随分と周到じゃねぇか、そいつら」
サブの低い声は、石造りの階段の壁と天井によく反響する。
「で? その道標ってのはどう使う。生贄にするために子供も殺すのか?」
藍子が青ざめた顔でサブを睨みつけるが、巨漢はそんな視線ごときではいささかも揺るがない。
「そこはわかりません。何しろ、召喚術に関する資料自体少ない上、シンカー国内でも剣の派閥の大僧正コーネリアスと、その側近大僧都アーロンの2人が管理していましたから……」
話しながら階段を登る一行から少しばかり遅れて登っていた菫は、何事かをぶつぶつと呟いていた。
やがて遅くなってきていた階段を登る脚の運びはピタリと止まる。綾子達が、菫が着いてきていない事に気づいたのは、たっぷり1フロア分ほど間が空いてからのことだ。
「スミレちゃん? どうしたの?」
綾子が慌てて駆け下りるが、菫はじっと佇んで何事かをブツブツと呟いて止まらない。
『わが主スミレよ、どうやらその赤子とやら、それに剣の派閥とやらはこの王都内にはいないようだ。城壁内をセンチネルに走査させたが、くまなく探してもいなかった』
アシュタロスの帰還にも気づいていないのか、スミレはぶつぶつと独り言を呟いて、指を虚空で動かしては何か立体的な絵を書いているような仕草を見せる。
浩二にネイオミ、さらにはアルター達もスミレのもとに戻ってきたあとも、数分間スミレはたったまま独り言を続ける。
が、不意にスミレの指の動きが止まり、独り言がピタリと止まった。
大きな目が見開かれて、その視線はまっすぐ綾子に向けられる。
「あ、あ、あっ、ああ、あや、あやこ、さん、わ、わか、わか、分かった、かも」
「うん、どしたの? 何かった? お腹すいた?」
ふるふる、とスミレが首を横に振る。
「あの、あ、あ、あの、ゆ、ゆう、しゃ、しょ、しょ、しょ、召喚、召喚術、あ、あの、あっ、え、ええ、えと、あの」
恐らく、聡明すぎる頭脳に口がついていけないのだろう、必死で言葉を紡ごうとするが、スミレの口から出てくる言葉はその気持ちと裏腹にどんどん詰まっていってしまう。思考の洪水に飲み込まれたかのように、言葉はどんどん置き去りになって行った。
『スミレよ』
そんな菫が不意に掛けられた言葉に、声の主を見上げる。
『心のなかで思え。吾輩が代弁してやる』
アシュタロスの言葉に菫は大きく頷いた。ほんの数秒、アシュタロスは黙って菫の大きな目を覗き込んでいたが、大悪魔には珍しい驚愕の表情を浮かべ、何度か小さくうなずいた。
『なるほどな、納得はまだ出来んが、理解はした。だが我が主スミレよ、貴様のその話、この場でこやつらに話して聞かせるにはあまりにも時間がかかる。それよりも、赤子の捜索範囲を城壁の外にある小さな街にまで広げさせている。そちらを優先させるべきではないかね?』
「あっ……うん」
菫はアシュタロスの言葉に頷いて、今度は綾子達に目を向ける。
「ごめ、ご、ご、ごめん、なさい」
「ううん、良いのよスミレちゃん。何か大事なことが分かったんでしょ? 少し落ち着いたらでいいから、私たちにも聞かせて」
「うん」
菫が頷いたのを確認した一行は、再び階段を登り始めた。




