32 逃げるは恥か
見知った男達が自分のことで大笑いしている様が気に食わなかったのだろう、綾子はじろりと祖父を睨みつけ、眼の前の大男のスネを遠慮なく蹴り飛ばす。
「何よ2人して、人をイノシシみたいに」
「知ってるか綾子、イノシシってのは意外と小回りがきく。お前にピッタリだと思うがな」
「お祖父ちゃん、流石に怒るよ?」
「はっははは、冗談だ冗談。……綾子も良い顔になった。すっかり女親分じゃねぇか」
「そうね。そこは否定しない。私だって色々あったもの。召喚されて、イキナリ追放されてさ?」
「そうか……で、お前追放された時どうした? 捕まらなかったのか?」
「そんなの、サブと一緒に殴り倒して蹴り飛ばしてさっさと逃げたわよ。で、そのまま地元の半グレとか盗賊団とかシメて周って、ゴルドベルク王国に拾ってもらって……あのサル何とか王国の内ゲバに首突っ込んで、それで今に至るって感じ?」
「お嬢、大雑把過ぎですぜ」
「何よ、間違ってはいないでしょ」
明るい笑いが響く広間の中で、ただ1人沈痛な面持ちで俯いている者がいる。
我が子の帰りを待つ母の立場となった、大魔道士の藍子だ。
「そちらのお嬢さんは?」
浩二が俯く藍子に顔を向けるが、藍子はじっと身じろぎもしない。
「あぁ、彼女も元日本人。たしか……中西? 藍子だったっけ。大魔道士よ」
「ほう、そりゃ大したもんだ」
藍子はようやく顔を少し上げて、浩二に会釈をする。
「大魔道士ってのは凄いんだろう。綾子と一緒に行動してたのか」
「違います。私は……私は、誰かを殺すことに耐えられなくて、それでお酒に逃げて、戦いからも逃げて……逃げた先で一緒にいた女の子が子供を産んで、でもその子は出産に耐えられるような子じゃなくて、結局子供を2回だけ抱いて死んだわ……」
「それで逃げた先の、暮らしてた村がシンカー王国に襲われて子供を攫われた。その子供を救うために、ゴルドベルク王国でも一番強い人に魔法を教わって今に至る、ってとこね」
「なるほどな。そいつは大変だったろ」
浩二の感想はごく短いものだった。が、藍子にとってはその率直で端的な言葉がありがたかった。
「はい……でも、もう逃げちゃダメだって思って、それで頑張りました」
「良い心がけだ。でもなお嬢さん、中西さんだったか? 少しばかりジジイの話を聞く余裕はあるかい?」
浩二の穏やかな、ヤクザの組長とは思えない優しい言葉に驚いたように顔をあげて、小さく頷いた。
「逃げちゃダメ、なんて誰が決めたんだ。良いかいお嬢さん、逃げるってのはそれはそれは難しい、高度な戦術だ。歴史の授業で習ったろ、逃げるな、戦え、死んでも踏みとどまれ、そう教わって実行しちまったのが、大日本帝国軍だ。結果どうなった? 歴史で習ったろ? 本来ならな、きちんと撤退するべきところで手ぇ引かなきゃいけなかった。それを『逃げた』なんていうバカが上にいたから、国民が何十年も苦汁をなめさせられることになったんだ」
浩二はヤクザではあったが、決して知識が無いわけでもアタマの回転が悪いわけでもない。むしろ同年代の男性と比較すれば、知識量も豊富でインテリと呼ばれる部類に入るだろう。
特に歴史に関してはマニアと呼ばれるくらいにのめり込み、世界中の戦史研究の書籍を読み漁り、特にハンニバル・バルカやナポレオン・ボナパルト、東洋であれば韓信や張良、さらにモンゴルの名将スブタイの戦術研究にまで手を出していた。
もっとも、それらの知識は生前何の訳にも立たなかったが、浩二の考え方やものの見方に影響を与えた事は間違いない。
「良いかいお嬢さん、逃げるときは全力で逃げるんだ。とにかく全力で、這いつくばって泥水すすって、どんなに惨めな思いをしようが、周りに何を言われようが、卑怯者臆病者と指さされようが、ケツまくって逃げるんだよ。中国の名将、韓信って知ってるかいお嬢さん。韓信はな、漢の劉邦を助けた大将軍だが、街でチンピラに絡まれて『俺の股の下をくぐればゆるしてやる』って言われた時どうしたと思う?」
藍子は大学で文学部に所属していたが、中国の歴史や文学に関してはまったくの門外漢だ。
そもそも文学部に入ったからと言って歴史などに興味があったわけではない。ただ経済学部よりも『なんとなく響きが良い』というだけの理由で選んだ学部だ。韓信の故事など知るはずもない。
「韓信はな、その男の股の下をくぐったんだよ。『股くぐりの韓信』なんてバカにされてもな、そんなチンピラと争うことそのものが、自分がやろうとしてることに比べりゃバカバカしくてお話にならないと、そう考えた。天下無双の大将軍でもそんな事やったんだ。俺等みたいなチンケなやつが逃げたところで、別にどうということはないさ。ただ、踏ん張らなきゃいけないタイミングはある。そこで踏ん張れるか、そこでも逃げ続けるかは大きな違いだな。お嬢さんの場合は、その子供を救い出すために踏ん張った、ってわけだ」
こくり、と藍子は大きく頷く。
「じゃあ大丈夫だ。逃げた甲斐があったな、お嬢さん。逃げて生き延びたからこそ、こうして子供を取り戻しに来られた。な? 逃げる事も悪いばっかりじゃないだろ」
初老の男の優しい笑みに、思わず藍子は目に涙を浮かべてしまった。
サンサルバシオンで酒に溺れて以来、藍子は自分に価値がないとまで思うようになっていた。マシッツの村まで逃げ延びてからは、自分の惨めさに何度泣き喚いたかもわからない。
初老のヤクザの組長の言葉は、荒れ果ててひび割れた藍子の心に降る慈雨のように染み込んだ。
そうだ、全てはこのためだったのかも知れない。
自分のことを『ママ』と呼んだ、喋り始めたばかりの子供を取り返す。取り返して、この腕に抱いて、また『ママ』とよんで微笑んで欲しい。
それが出来るなら何だってやれる。地獄の特訓にだって耐えられた。かつてはいがみ合った、やたら背が低くて胸の薄い女とも、共に歩めるようになった。
「ちょっと、アンタ今どこ見てた? 何かすごく失礼なこと考えてそうな顔だったけど」
「別に、何も見てないわよ」
子供のためなら何だってやってやる。もうすぐ子供に会える。
そう考えた藍子の前に、漆黒の服を纏った悪魔が現れる。悪魔の言葉は、藍子だけでなく全員を愕然とさせるものだった。
『僧院とやらはもぬけの殻だ。人の子一人いない。その赤子とやらもな』




