24 密かな会話
幼き王、アルターにとっては、尼僧ネイオミによる教導の時間こそが、唯一心が安らぐひとときだ。
少しハスキーではあるが、優しく落ち着いたネイオミが教書や経典を読む声は、アルターの冷たく凍りついた心を束の間温めるものだった。
そんなネイオミの声が不意に途切れる。
不安げに尼僧を見上げた少年王に、尼僧は少し声を潜めながら顔を近づけた。
「陛下、それでは次の経典をしばらくお読みください」
ちら、とネイオミはドアの方に視線を向ける。人の気配を隠そうともしない、盗み聞きをする者たちの存在を察したネイオミは、懐から懐紙とペンを取り出した。
さらさら、と手際よく美しい字が書き記されていく。
【私ども、盾の派閥は常に王をお守りする盾。必ずや陛下をお守りいたします】
アルターはネイオミからペンを受け取ると、10才の子供にしては整った、少し角ばった字を書き込んでいった。
【でも、みんな見張ってる】
2人は1本のペンで静かに会話を交わしていく。
【お気を強くお持ちください。今は雌伏の時です。私どもと協力する者もおります。陛下は一人ぼっちではございません】
【城の外にもいるの?】
【はい。それに、私と志を同じくする者は、盾の派閥の者は商業組合にも、貴族院にもおります。民の命をまとめて掴んで火に焚べるような真似を繰り返す剣の派閥に国を任せていては、このシンカー王国は遠からず自滅してしまいます】
【でも僕は何も出来ない。僕も父上と母上が守ってきた国を守りたいのに】
【ご安心ください。先日、外部からも私どもに接触がありました。味方は着実に増えております。どうかお気をお強く持って、今は私たち『盾』を信じてお待ち下さい】
最後のネイオミの一文を見て、初めてアルターは驚いたような表情を浮かべる。
「そうです、この部分の解釈には驚かされますね、陛下」
優しくネイオミが、わざと少しだけ声を大きくして話し始めた。まるで盗み聞きをしている者たちに、わざと聞かせるためであるかのように。
「大真蔵経のこの一節は、人を信じる心の大切さを示しているのです。君、君たらずんば、臣、臣たらず。王が王としてふさわしくなければ、家臣も家臣としてふさわしい者でなくなってしまう。王は常に王らしくあらねばなりません。そのためには、王は常に強い心で臣を信じる強さを持たねばならないのですよ」
【外部っていうのは、他の国のこと?】
「はい、そのとおりです陛下」
にこ、とネイオミは嬉しそうに頷いた。
「人と手を携え助け合うことこそが人類の本懐。私たちシンカー僧院の基本の教えにもございます」
【でも、他の国はシンカー王国を助けてくれたりしないって、そう大僧正が言っていた】
「そのような事はございません。王が王として正しくあられれば、必ずやともに手を携える友は現れます。私は、そう信じておりますよ、陛下」
しばらく王は考え込んで、懐紙の隅に小さく文字を書き込んだ。
【大僧正が怖い】
少年らしい怯えた目は、じっと懐紙の上の文字に向けられていた。
尼僧は優しく少年王の身体を法衣で包み込むように抱きしめる。
つい先日まで学ぶ機会すら遠ざけられ、身体を満足に動かすことも出来なかったためかひどく弱々しい。
本来なら、10才という年頃ならば友人たちと駆け回って遊んでいるはずだ。だが、この孤独な少年は友人の1人もおらず、外からは遠ざけられ、身体もひ弱としか言えない。
ネイオミは、海で失った我が子を思い出していた。
貿易のために船を出し、遠洋航海へと繰り出していた商人の夫のマネをして、息子も日焼けして海の男に憧れていた。
10才の頃には、腕力だけなら母である自分をらくらく上回ってしまっていた。
12才になった頃には上背も母を追い抜き、15才の誕生日の翌月には、父の仕事を助けるために初めての遠洋航海へと出向した。
桟橋から見送った、よく日焼けした夫と息子の、そっくりな笑顔。それがネイオミが最後に見た家族の姿である。
【怖くても良いのです。恐れるべきものを恐れるのは臆病とは申しません。恐れるべきものを恐れないのは、ただの愚か者のすることです。陛下がなさるべきは、大僧正の何が、どのように、どうして怖いのか。その恐怖に向き合うことです】
不安そうな、今にも涙がこぼれそうなほど怯えた少年王の目が、尼僧をじっと見上げる。
小柄で弱々しい少年王は、誰にも導かれる事無く育ってしまった。
自分が護らねばという義務感と、行き場を失ってしまった母親としての愛情が、ネイオミを突き動かしている。
【僕に出来るかどうか分からない】
「それで良いのです陛下。それで間違っておりません。ご心配には及びません、陛下をお助けするためにこそ、私たちがいるのです」
ネイオミは懐紙に力強く書き記す。
【大切なのは、怖がることではなく正しく恐れること。怖がらぬ事を強さと呼ぶのではありません。怖がるとは、脅威に対してただ感情的に遠ざけようとするもの。恐れるとは、脅威と向き合い、その真の姿を見極めた上で、どう接するかを考えること。脅威がもたらす己の恐怖と向き合い、正しく恐れる事こそが肝要なのです】
「よろしいですか、陛下」
ネイオミは、王の目をペン先に惹きつけてから、ゆっくりとペンを走らせた。
【真の強さとは、恐れる事そのものを怖がらぬ事。恐怖と正しく向き合う心のあり様をこそ、強さと呼ぶのです】




