23 幼い王
シンカー王国は商業で成り立っている国であり、過去に他国との大規模な戦争を行った事例は多くはない。
比較的政情も安定しており、政権や政情の安定が重要とされる商人にとっては、実に暮らしやすい国となっている。
そんな国の玉座の主は、先代国王と王妃の突然の崩御に伴い、2年前に即位したばかりの少年である。
わずか10才の少年が政務を行えるはずもなく、周囲はオトナ達で固められていた。
海千山千の商人から立身出世を成し遂げた大臣に、腹芸を得意とする貴族らからなる官僚が立法と行政を。
防衛力を構成する騎士団と、国を支える柱のひとつとして高くそびえているシンカー僧院の僧侶や、僧院が独自に保有する僧兵団が、事実上の防衛をになっている。
本来ならば、商人、貴族、僧侶ら3本の柱が幼い王を支え国を安全に運営させる、というのが求められる姿だ。が、実情はまったく違っていた。
シンカー王アルターは、だだっ広い執務室にただ1人ポツンと椅子に座り、書類の一枚すら置いていない広大な机の天板をじっと見て過ごす。それが若き王の1日だった。
10才ほどの男児を育てる母親ならば、10才の子供がここまで静止していられるものか、と目を剥いて驚くことだろう。それくらいアルター王は大人しく、じっと身動ぎもせず、何なら呼吸の音すら抑えている。
ノックもなく突然ドアが開けられても、少年王は表情も変えずじっと机の上のペンを見つめ続ける。
「陛下、献策に参りました」
現れたのは恰幅の良い商人の男である。
「海上交易に置いて、対サンサルバシオン、対ゴルドベルクの塩の販売単価の値上げの件で、我が国の専売公社からの答申が参りました。やはり一律五割の値上げが妥当である、とのことでございます。こちらの塩の輸出単価引き上げ法案について、陛下のご決裁を頂きたく」
商人の男が差し出した髪には、細かい文字でびっしりと何かが書き込まれている。
アルターに出来ることは、この法案文書の吟味や、法案を持ってきた男に法の意義や影響範囲などを問いただすことではない。
ただ、机の上のペンで自らの『アルター』の名を書き記すことだけだ。
シンカー王国の最終決裁権は国王にある。が、事実上少年王アルターにそのような力はなかった。
何なら決裁権どころか、その日に身につける服はもちろん、口にする飲み物を暖かいものにするか冷たいものにするか、果ては、その手に持つペンを選ぶ事すら出来なかった。
少年王は、事実上傀儡であった。
現在シンカー王国の事実上の舵取り役は、最大勢力であるシンカー僧院のトップ、コーネリアス大僧正である。
アルターがコーネリアスから赦された言葉はただひとつ、『良きに計らえ』という極めて短い言葉だけである。
国王のサインが書き記された法案文書を持った商人と入れ替わりになるように、王の執務室のドアが静かにノックされる。入ってきたのは紫色の法衣を纏った女だった。
「陛下、勉学の時間でございます」
女はシンカー僧院において権中僧正という位階にある尼僧で、アルターへの宗教教育を担当するようになったのは最近のことである。
アルターは黙って頷き、尼僧の後ろをとぼとぼと歩く。
すれ違う使用人や侍従は立ち止まって王に会釈をするものの、心から心服して跪くものなどは皆無である。
王城内にある書庫の重厚な扉を開け、王と尼僧が入ると内側から厳重な鍵が掛けられた。
尼僧が勧める椅子に座った幼い王は、ここでもただじっと机の天板に視線を向けたまま動かない。
尼僧、権中僧正ネイオミは胸が張り裂ける思いであった。
かつて夫と息子を失い僧となった彼女は、ただ国家の安寧を祈願し、夫と息子の菩提を弔うためにシンカー僧院に入った。
聡明で優しく、愛情深い彼女の説法や奉仕に救われたという国民も少なくない。僧院での信頼も厚く、女性としては初めて紫の法衣を赦され、現在は権中僧正として若い僧たちを指導する立場でもある。
ネイオミは、10才の男児は親の言う事など聞かず、なんならほんの数分でもじっとしていられない事などよく知っていた。彼女の息子は、15才で夫と共に船に乗り、そのまま帰ってこなかったが、息子が10才の頃など何度『少しはじっとしていろ』と叱り飛ばしたかも分からないくらいだった。
「陛下、もうよろしいですよ」
ネイオミが優しい声でそう語り、そっと手を小さな背中に添えると、幼い王は初めて視線を動かして自らに教えを施す尼僧を見上げる。
「しばらくお休みしてから、勉学に励むと致しましょう」
幼い王はためらってから小さく頷く。
彼は父王と母である王妃の殺害現場を目にして以来、言葉を発したことがない。
誰が彼の両親を死に追いやったのか、それは今も分かっていない。だが、彼の目には、両親の首にナイフを当てる何人かの男たちの姿がはっきり写った。
王子であったアルターは何とか逃げ延びたものの、次の日には毒を盛られ喉を灼かれてしまった。
声を出すことができなくなった少年は、周囲の貴族や商人、僧たちにとって大変に都合のいい傀儡となった。
周囲の大人たちの思惑に踊らされ、味方となるものなどほとんどいない。
王家に忠誠を誓っていた重臣たちはいつのまにか粛清され、玉座は少年王にとっていつ後ろから刺されるかも分からない、という土壇場のような場所になっている。
常に命を狙われているという異常な緊張感は、少年王から声だけでなく表情すら奪ってしまった。
ただ求められるままに自らの名を書き記すか、筆談での指示は『良きに計らえ』という文字のみ。いつしか歴史ある王家の唯一の生き残り、アルター王の全身は、周囲の大人たちの思惑という糸でがんじがらめになっていた。
そんな少年に、唯一純粋に教えを授けるため、裏表無く接しているのが僧院の尼僧、ネイオミである。
彼女が王の教育係に抜擢されたのも、いわば大人の事情というものが複雑に絡みついたものだ。
商人、貴族、僧侶のいわば3つの勢力が睨み合う中で、自身が貴族出身で商人の妻となり、そして今は尼僧となっているネイオミは、3つの勢力すべてに通じやすく、また3つの勢力のいずれをも牽制しやすい存在だ。
最終的には大僧正コーネリアスの鶴の一声で決定した人事だが、それでもこの人事だけは、アルターにとって人生最大の幸運と言えるものだ。
「いかがですか陛下、落ち着きましたか?」
アルターは小さく頷く。
ホッとしたようなため息をついて、ネイオミは優しく少年王の髪を撫でる。まるで母親が息子を慈しむような優しい手と、優しい目だった。




