16 人の心
サンサルバシオン王都から離れた街道を北上する馬車の中では、地獄を目の当たりにした村長も中年の漁師も、そしてボロボロの修道服を纏ったままの藍子もほとんど口を開かない。
御者席に座るサブは元から無口で、スミレはサブよりもさらに無口である。
重苦しい沈黙に耐えかねたのは綾子だった。
「で? 村長さんとそちらの猟師さんはとりあえず王都で保護してもらうとして、あんたこれからどうすんのよ」
あんた、といいつつ綾子が視線を向けたのは、目を真っ赤に泣き腫らした藍子だった。
藍子は力なくうなだれていた顔をなんとか上げて、慈悲の心など欠片も見て取れない目線を向けている綾子を見上げた。
「これからどうするって……」
「どこでどう生きていくのか、何して生きるのか。まぁ別に私は興味もないし、好きにすればいいわよ、オトナなんだから。誰に何を言ってどこで何をしようが私は構わない」
「……あなたってホントに……人の心っていうものが無いの? なんでそんなに冷たく出来るのよ」
「人の心ならあるわよ。少なくとも、あんた達のオトモダチだったあのロリコン変態ハゲよりはね。それに、そうやってメソメソ泣いて黙り込んでてなにか良いことあるの? あるなら好きなだけメソメソしてりゃいいわ」
藍子は言葉を返せない。藍子は忌々しそうなため息を吐いて、誰もいない空間に向かって声を掛ける。
「アシュさん、いるんでしょ」
『吾輩に何用か』
突然姿を表した血色の悪い男の姿に、救助された3人は短く悲鳴を漏らして身体を硬直させる。
「バルザックさんとエミリアさんにはハナシは通じてるんでしょ?」
『吾輩を侮るな、あの村の状況に今のこやつらの状態も、吾輩の配下どもを通じて伝えてある。そこの大魔道士くずれのこともな』
真紅の瞳が藍子を傲然と見下ろすが、藍子は見返すことが出来ない。
常人ならば、地獄の大公爵の目を睨み返すなど、到底出来ようもない。綾子やスミレ、サブが特殊なだけなのだ。
『無様なものだな。酒に溺れ鍛錬を怠り、己の身に与えられた神託という名の天禀に目を向けることもなく、名ばかりの大魔道士などとおだて上げられた結果がこのザマだ。子供一人守ることも出来んとはな、この世界の者たちはよほど吾輩を笑わせるのが得意と見える』
「なによ……何よその言い方! あんたもそうよ、人の心ってものが無いの?」
『あるわけが無かろう、吾輩を誰だと思っている。吾輩は地獄の大公爵アシュタロス。悪魔が人の心などというつまらぬものを持ち合わせるとでも思ったか? そういう貴様こと、人の身でありながら人の心というものを持たんのか? 自分を守ってきた村を焼かれ、皆殺しにされ、子供を攫われ、その上こうしてうなだれて泣いているだけか。それが貴様のいう人の心というものか? 地獄の亡者どもと何も変わらんな』
「アシュさん、言い方」
まるで自分の言い方が優しかった、とでも言わんばかりに綾子がアシュタロスを睨みつける。が、大悪魔はその程度ではいささかも揺るがない。
『貴様のような者をこそ愚かというのだ。鍛錬をすれば子を護れるだけの力を持ちうるだろうに。それだけの天禀と器がありながら、こうしてめそめそと泣き言を続けて奪われた子を助けに行こうともしない。己が持つものを自覚すらしない。これを愚かと言わずして何と言う』
一気に言い切ってからアシュタロスは傲然と胸をそびやかし腕を組む。睥睨とはこういうことか、と納得してしまうような姿勢だ。
『貴様の見栄だの矜持だのといったものが邪魔をして他者に教えを請うことも出来んというなら、貴様にとって奪われた子の重さなどその程度ということだ。失ったところで痛くも痒くもあるまい。奪われた子を取り返したいと思うのならば、そのように無様にめそめそ泣いてうずくまっているなど、ほんのいっときでも出来んはずだ。そこにいる菫にでも吾輩にでも教えを乞えばよかろう。子供を奪い返しに行くから力を貸してくれと頼むこともできよう。なのにその程度のこともしない。つまりは奪われた子の重さなど、貴様のつまらぬ、薄っぺらい矜持程度の重さすら無いということにほかならん』
「私に何が出来るっていうの……魔法だってろくに使えなかった……小川さんみたいに凄い魔法を使えるようになったわけでもない……私だって、私だって出来ることなら力が欲しいわよ! あの子を取り返せるなら取り返したいわよ!」
『貴様は菫が何の苦労もなく力を手に入れたとでも思っているのか。貴様どこまで我輩を笑わせるつもりだ。どこまでその目は節穴なのだ。ガラス玉でも詰まっているのか?』
アシュタロスはその赤い目を、ちょこんと座ってじっと佇んでいる菫に向けた。
『貴様は図書館の魔導書をすべて読んだのか? 菫はすべて読んだぞ。夜も寝ずに魔道の何たるかを学んだか? 菫は寝ずに学んだぞ。魔力の制御のために、鼻血に血涙を垂らしながら訓練をしたのか? 菫はしたぞ』
藍子がすぐ隣りに座る小柄な少女に視線を向ける。が、菫は興味もないといった様子でじっと佇み、馬車の床板をじっと見ている。
『天禀も訓練無しでは開かぬ。種を与えられようが、土を耕し、水と肥料をやり、世話をしてやらねば花も咲かぬし実も実らぬ。その程度のことも分からぬからこそ、貴様は愚かなのだ。貴様は与えられた種をただ酒に放り込んだだけではないか。吾輩から言わせれば滑稽でしかないな。今のこの惨めな状況は、すべて貴様の怠慢によるものだ。それで我輩や綾子に食って掛かるとは、滑稽を通り越して喜劇ですらあるな』
藍子は必死で頭を巡らせる。だが、返す言葉が何一つ見つからなかった。
魔法の座学での講習も、自分が理解できないのは、教師役を勤めた女魔道士、アイリーン・サーサーンの教え方が悪いのだと信じて疑わなかった。
魔力制御の訓練も、息切れをしたらそこで止めていた。鼻血も血涙も、今に至るまで一度も流したことがない。
魔導書に至っては与えられたものを読もうともしなかった。
大魔道士の神託を受けたとしても、それはあくまで然るべき訓練を受ければ上位の力を手に入れられるというものでしかなかった。現に、あの聖騎士は騎士団との訓練に汗を流し、拳王サブに敗れたとはいえ一廉の騎士になっていた。
俯いて言葉を返そうとしない藍子を見下ろして『ふん』とつまらなそうに息を吐いて、アシュタロスは霞のように姿を消す。
誰も何も話そうとしない重苦しい馬車が、サンサルバシオン王都からの救援の馬車と合流したのは、一行がマシッツを発った翌日のことだった。




