第九十二章 王妃の決意
王妃が王国へ戻ってからしばらくは、何事もなく穏やかな日々が過ぎていった。
神宝は王家の宝物庫、その最奥へと運び込まれる。
幾つもの宝物が眠る広間を抜けた先には、歴代の王家が大切な宝を納めてきた小さな石室があった。
王妃は神宝を中央の宝箱へ静かに納めると、しばらくその蓋へ手を添えたまま目を閉じる。
「……これだけでは足りません。」
王妃は静かに振り返った。
「この部屋へ、鍵を増やしてください。」
「鍵を……ですか?」
兵士たちが顔を見合わせる。
「ええ。」
「一つでも多く。」
「誰にも簡単には開けられないように。」
王は少し驚いたような表情を見せたが、やがて静かに頷いた。
「分かった。」
その日から、石室の扉には次々と新しい錠前が取り付けられていく。
一つ。
二つ。
三つ。
そして最後には、何重もの南京錠が扉を固く閉ざしていた。
王妃は最後の錠へ自ら鍵を掛ける。
カチリ、と乾いた音が宝物庫へ響いた。
「これで安心ですね。」
王妃がほっと息をつくと、王も静かに頷く。
「ああ。ここまで厳重なら、誰も容易には辿り着けまい。」
閉ざされた石扉を見つめながら、王妃はようやく肩の荷が下りたように胸を撫で下ろした。
◆
それからの日々は、穏やかだった。
春風に揺れる花々を追いかけるように、幼いルミナリアは今日も王妃の後ろをちょこちょこと付いて歩く。
「お母様!」
「見て見て!」
白い花で編んだ小さな花冠が、猫耳の間へちょこんと乗せられている。
王妃は思わず吹き出した。
「あら、とっても可愛い。」
「えへへ!」
嬉しそうに笑う娘を抱き寄せ、柔らかな髪を優しく撫でる。
花冠からは、摘みたての花の甘い香りがふわりと漂った。
「ルミナリア。」
「はい!」
「あなたは、たくさんの妖に愛される子になってね。」
「うん!」
幼い娘は意味も分からないまま、元気よく頷く。
その無邪気な笑顔を見つめる王妃の瞳は、とても優しかった。
遠くでは噴水の水音が響き、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。
王城には、穏やかな時間が流れていた。
――この時間が、ずっと続けばいい。
王妃は心から、そう願っていた。
だが、その願いは叶わなかった。
ある夜。
静まり返った城内へ、けたたましい警鐘が鳴り響く。
ゴォン――
ゴォン――
重い鐘の音が夜空を震わせ、眠っていた侍女たちが慌ただしく部屋を飛び出していく。
「敵襲!」
「侵入者だ!」
兵士たちの怒号が城中へ広がった。
王妃が部屋の扉を開けると、一人の兵士が血相を変えて駆け込んでくる。
「王妃様!」
肩で息をしながら叫ぶ。
「宝物庫です!」
「何者かが宝物庫へ侵入しました!」
その言葉を聞いた瞬間、王妃は迷うことなく駆け出した。
長い石造りの回廊を走る。
壁に並ぶ燭台の炎が揺れ、足音が夜の城へ高く響いた。
角を曲がった先で、王と合流する。
王はすでに剣を抜いていた。
「無事か!」
「ええ!」
二人は並んで宝物庫へ向かう。
重い石扉を開けると、王妃は迷うことなく最奥へ駆ける。
宝物庫の奥。
幾つもの宝が並ぶその先には、小さな石室へ続く扉があった。
扉には何重もの南京錠が掛けられている。
王妃は一つひとつ確かめるように錠へ触れた。
どれも壊されてはいない。
最後の錠へそっと手を添え、小さく安堵の息を漏らす。
「……まだ無事です。」
その言葉を聞き、王も胸を撫で下ろした。
神宝は、この扉の向こうにある。
王妃は扉の前へ静かに立つと、まるでその身で守るように両手を重ねた。
「王妃。」
「ここは危険です。」
王が声を掛けても、王妃は首を横へ振る。
「ここを通すわけにはいきません。」
その瞳には、一片の迷いもなかった。
その時だった。
ズンッ――!
腹の底まで響く衝撃が宝物庫全体を揺らした。
天井から細かな砂埃が降り注ぎ、入口の重い石扉へ蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
兵士たちが一斉に武器を構えた。
「来ます!」
次の瞬間。
轟音とともに入口の石扉が砕け散り、大量の瓦礫が宝物庫へ雪崩れ込む。
舞い上がる土煙。
白く霞んだ視界の奥から、一人の男がゆっくりと歩みを進めてきた。
白い鬼神面。
その奥で静かに燃える、二つの赤い瞳。
誰もが息を呑む。
王は剣を構え、王妃の前へ一歩踏み出した。
鬼神面の男は二人を一瞥すると、その視線は真っ直ぐ王妃の背後――何重もの南京錠で閉ざされた石室の扉へ向けられる。
低く冷たい声が、静まり返った宝物庫へ響いた。
「……その奥だな。」
男はゆっくりと一歩踏み出す。
「渡せ。」




