第八十章 コハクが怖いもの
朝。
「……ん。」
目を開けると、障子の隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
白い光が畳へ細長く伸び、その上を小さな埃がゆっくりと舞っている。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。
「……。」
ぼんやりと天井を見上げる。
昨日。
水晶に映った光景が脳裏によみがえる。
炎。
悲鳴。
そして――血。
胸の奥が、きゅっと掴まれたように苦しくなった。
窓の外では、どこかで子どもたちが笑っている。
その賑やかな声だけが、妙に遠く聞こえた。
✧ ✧ ✧
気づけば昼になっていた。
家の中には、すでに慌ただしい空気が流れている。
ニャオミーが帯を結び直し、たぬぷぅが昨日買ったお菓子の包みを大事そうに抱えていた。
「今日は昨日の続きじゃ!」
ルゥが、びしっと指を突き上げる。
「今日こそ射的で景品を取る!」
「まだ諦めてなかったんだ……。」
ユウトが苦笑する。
「当然じゃ!」
ふんすっと胸を張った。
「龍神の本気を見せてやるのじゃ!」
「昨日も同じこと言ってた。」
「昨日は昨日!」
「今日は今日じゃ!」
「理論がよく分からない……。」
「あははっ!」
ニャオミーが楽しそうに笑った。
家を出ると、祭りの通りは昨日以上の賑わいを見せていた。
赤や金の提灯が風へ揺れ、屋台からは甘い蜜の香りや焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
笛や太鼓の音が通りへ響き、妖の子どもたちが駆け回っていた。
夜の花火へ向けて、里全体が浮き立っている。
「……。」
コハクは、その光景を静かに見つめた。
花火。
今夜。
ふと。
昨日、見た光景が脳裏を過ぎる。
炎。
悲鳴。
黒い煙。
そして――。
血に染まった、ユウト。
「……っ。」
呼吸が浅くなる。
提灯の明かりも。
楽しそうな笑い声も。
急に遠くなった気がした。
『コハクちゃんって、なんか怖い。』
不意に。
幼い頃の声が蘇る。
『お母さんは九尾がこの国を守ってるって言うけどさ。』
『ただの厄病神じゃん。』
――違う。
そう思いたかった。
でも。
『そのまま進むと、転ぶわよ。』
『えー?』
男の子が笑いながら駆け出し――。
ずべっ。
『わぁっ!? いたいよぉ!』
周りにいた子どもたちが、しん、と静まり返る。
『……なんで分かったの?』
他の日もそうだった。
『今日は川へ行かない方がいいわ。』
『なんで?』
『……嫌な感じがするの。』
夕方。
川へ落ちた子どもが助け出され、濡れたまま泣いていた。
『やっぱり……。』
『コハクが言った通りになった……。』
少しずつ。
本当に少しずつ。
みんなが自分から離れていった。
『コハクに近づいたら死んじゃうよ。』
『厄病神。』
『厄病神!』
『コハクちゃんとは、もう遊ばない。』
「……。」
コハクは、ぎゅっと目を閉じた。
初夏の風が頬を撫でる。
そっと目を開ける。
そこには。
楽しそうに笑うみんながいた。
ルゥが屋台へ駆け出していく。
「待ってよ、ルゥー!」
ニャオミーが慌てて後を追う。
たぬぷぅは、すでに妖蜜みたらし団子の屋台を見つめていた。
ユウトが、そんなみんなを見て小さく笑っている。
その光景が、あまりにも楽しそうで。
胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
――壊したくない。
胸の奥で、小さく何かが軋む。
空は少しずつ茜色へ変わり始め、提灯の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
夜が近づいていく。
花火の時間も、ゆっくりと近づいていく。
そして――。
「あれ……?」
ユウトが足を止め、きょろりと辺りを見回した。
「コハクがいない……。」
いつの間にか、すぐ後ろを歩いていたはずの姿が見えなくなっている。
辺りは、すっかり夜になっていた。
通りの両側へ吊るされた提灯が橙色の光を落とし、屋台からは焼き魚や甘い蜜の匂いが漂ってくる。
花火を心待ちにした妖たちの笑い声が、夜風へ溶けるように響いていた。
夜空には、まん丸の月が浮かんでいる。
「なに?」
ルゥが、きょとんと目を瞬かせた。
「あの狐、どこへ行ったんじゃ。」
もぐもぐ。
屋台で買った串焼きを頬張りながら、片手には射的で取った小さな狐の人形を握っている。
結局、何度も挑戦した末に、一つだけ景品を取ることに成功していた。
「これから花火だというのに……。」
「トイレかな?」
ニャオミーが背伸びをして、人混みの向こうを覗き込む。
「うーん……でも。」
小さく首を傾げた。
「何か言っていくよね?」
「……しんぱい。」
たぬぷぅが、ぎゅっとお菓子の包みを握る。
「……だな。」
ユウトも人混みへ目を向けた。
これだけ人がいても、白い髪は目立つ。
それなのに、どこにも見当たらない。
胸の奥で、小さな違和感がざわりと動いた。
「みんなで探そう。」
「うむ!」
ルゥが、びしっと指を立てる。
「花火はみんなで見るのじゃ!!」
「まったく、余計な手間をかけさせおって!!!」
ぷんすかと頬を膨らませているが、その視線は落ち着かないように辺りを行ったり来たりしていた。
四人は、人混みの中へ駆け出した。
屋台の裏。
神社の境内。
少し外れた路地。
提灯の光が届かない暗がりまで覗いてみる。
「コハクー!」
ニャオミーの声が、夜へ響く。
返事はない。
「こはくー……。」
たぬぷぅも、小さな声で呼ぶ。
それでも。
返事は返ってこなかった。
「いない……。」
ユウトが、ぽつりと呟く。
その時だった。
――こんこん。
夜空へ、澄んだ鐘の音が響く。
続いて、里中へ明るい声が流れた。
『皆さま、お待たせいたしました!』
『あと十分後には、お月見祭り最大の催し――花火大会が始まります!』
『どうぞ、お見逃しなく!』
わあっ、と歓声が上がる。
妖たちが嬉しそうに空を見上げ、子どもたちが駆け回る。
ユウトたちだけが、その場へ立ち尽くしていた。
あと、十分で花火が始まる。
それなのに。
コハクは、まだ見つからない。
丸い月だけが、静かに夜空へ浮かんでいた。




