第九十六章 王妃の願い
眩い光が宝物庫を包み込む。
思わず目を閉じたくなるほどの白い輝きが、崩れかけた石壁を照らし、舞い上がる砂埃まで黄金色に染め上げていく。
鬼神面は咄嗟に腕で顔を庇った。
赤い瞳が細められる。
次の瞬間。
轟音とともに光が弾けた。
空気そのものが爆ぜたような衝撃が宝物庫を駆け抜け、鬼神面の身体を大きく吹き飛ばす。
壁へ激突した鬼神面は石床を滑り、砕けた瓦礫を巻き込みながらようやく片膝をついた。
鈍い音が静まり返った宝物庫へ響く。
ぽたり。
赤い雫が石床へ落ちた。
白い鬼神面には一本の亀裂が走り、その隙間から流れた血がゆっくりと顎を伝い、足元へ小さな赤い染みを作る。
鬼神面は何も言わなかった。
ただ静かに石室を見つめる。
その赤い瞳だけが、わずかに揺れていた。
驚きか。
悔しさか。
それとも――。
仮面の奥にある表情は誰にも分からない。
その時だった。
「斎主様!」
宝物庫の入口から数人の黒装束が駆け込んでくる。
鬼神面の姿を見つけた瞬間、その足が止まった。
誰もが息を呑む。
仮面の亀裂。
滴る血。
その姿は、彼らが想像していたよりも遥かに深い傷を負っていた。
「お怪我を……!」
一人が慌てて駆け寄る。
「これ以上は危険です!」
鬼神面はなおも石室から視線を逸らさない。
まるで、その奥にある神宝だけを見つめ続けているようだった。
「まだだ。」
低く短い声。
しかし部下は静かに首を横へ振る。
「なりません。」
「これ以上鬼神面を使えば、本当に命を落とします。」
宝物庫へ沈黙が落ちた。
崩れた天井から、小さな石片が転がり落ちる音だけが響く。
鬼神面はしばらく動かなかった。
石室を見つめる赤い瞳には、どこか届きそうで届かないものを見つめるような静かな色が宿っている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……まだか。」
その呟きは誰へ向けたものだったのか。
部下にも分からない。
怒りではない。
焦りでもない。
何十年という時間を待ち続けた者だけが滲ませる、深い諦めだけがその声には残っていた。
鬼神面はゆっくりと背を向ける。
「退く。」
その一言で部下たちは一斉に頭を下げる。
「はっ。」
鬼神面を支えながら、黒装束たちは静かに宝物庫を後にした。
足音が少しずつ遠ざかる。
やがて、その音さえも完全に消えた。
残されたのは、崩れた宝物庫と静寂だけだった。
王妃は石室の前で、小さく息を吐く。
張り詰めていた緊張がほどけた途端、膝から力が抜けた。
その場へ崩れ落ちそうになる身体を、石室の扉へ寄りかからせる。
冷たい石の感触が背中へ伝わった。
視線の先には、瓦礫の中で倒れた王の姿。
王妃は震える手をゆっくりと伸ばす。
「……あなた。」
掠れた声は届かない。
指先はあと少しというところで止まり、力なく宙を彷徨う。
浅くなった呼吸が胸を小さく上下させ、そのたびに血に染まった衣がわずかに揺れた。
石室から漏れる淡い光が、その横顔を優しく照らしている。
「……ごめんなさい。」
かすれた声が静かな宝物庫へ溶けていく。
王妃の視線は、瓦礫の向こうで眠る王から離れなかった。
「あなたも。」
「王国のみんなも。」
「人間界の方たちまで……。」
苦しそうに息を吸う。
胸元を伝った血が一滴、また一滴と石床へ落ち、小さな赤い染みを広げていく。
「私が……。」
「巻き込んでしまいました。」
王は動かない。
静かな寝息だけが聞こえていた。
「ルミナリアを……。」
「お願いしますね……。」
その声は、風へ溶けるほど小さい。
王へ伸ばした手は、あと少し届かないまま力を失い、静かに石床へ落ちた。
穏やかな微笑みだけを残して。
王妃は、静かに息を引き取った。
宝物庫には、何も音がなかった。
崩れた天井から差し込む一筋の光が、静かに舞い落ちる砂埃を照らしている。
どれほど時間が過ぎたのか。
小さな瓦礫が転がる音だけが、静寂を揺らした。
「……っ。」
王はゆっくりと瞼を開く。
鈍い痛みが頭を走り、ぼやけた視界の向こうで崩れた石壁が揺れて見えた。
「王妃……?」
掠れた声で名を呼ぶ。
返事はない。
嫌な予感が胸を締め付ける。
王は身体を引きずるように立ち上がり、瓦礫を踏み越えながら王妃のもとへ駆け寄った。
「王妃!」
肩を抱き起こす。
その身体はまだ温かい。
だが、どれだけ呼びかけても瞳が開くことはなかった。
王の手が小さく震える。
「王妃……。」
声にならない。
「誰か!」
悲鳴にも似た叫びが宝物庫へ響く。
「医者を!」
「早く来るのだ!!」
駆け込んできた兵士たちは、その光景を見て足を止めた。
誰も言葉を発せない。
王は王妃を抱き締めたまま、何度もその名を呼び続ける。
その声だけが、崩れた宝物庫へ虚しく響いていた。
◆
白い光がゆっくりと薄れていく。
崩れた宝物庫も。
王妃も。
王も。
鬼神面も。
すべての景色が淡く霞み、静かに現在の宝物庫へ溶けていった。
共鳴していた三つの神宝も、役目を終えたように輝きを失う。
宝物庫は深い静寂に包まれた。
誰も言葉を発せない。
王は震える手で口元を押さえ、小さく肩を震わせる。
長い沈黙のあと、ようやく掠れた声が漏れた。
「……そうだったのか。」
その一言だけで、胸に抱え続けてきた想いが溢れ出す。
「王妃……。」
「最後まで、一人で……。」
王は俯き、静かに涙を流した。
ニャオミーもまた、母の日記を胸へ抱き締める。
もう綴られることのない文字。
もう聞くことのできない声。
それでも今日、母の願いだけは確かに受け取った。
コハクは神宝の欠片をそっと両手で包み込む。
「神宝は……。」
小さく息を吐く。
「最後の持ち主の願いを、ずっと覚えていたのね。」
ルゥも静かに頷いた。
「じゃから……。」
「最後まで、王妃へ応え続けたのじゃ。」
誰も、その言葉を否定しなかった。
神宝がまるで安心したように一度だけ優しく輝く。
それは長い時を越え、ようやく最後の願いを届け終えた、小さな返事のようだった。




