第九十四章 王妃が守りたいもの
鬼神面の男が右手を仮面へ添えた。
カチリ、と小さな音が宝物庫へ響く。
次の瞬間、床一面へ赤黒い術式が広がった。
幾重もの円が重なり合い、無数の呪符が宙へ舞い上がる。
肌を刺すような禍々しい気配に、兵士たちの表情が一変した。
「総員、王妃様をお守りしろ!」
王の号令とともに、兵士たちが一斉に前へ飛び出す。
剣が抜かれる音が重なり、宝物庫へ甲高い金属音が響いた。
鬼神面は一歩も動かない。
静かに指先を兵士たちへ向ける。
「縛式。」
赤い札が一斉に宙を駆けた。
「ぐあっ!」
兵士たちの身体へ呪符が貼り付き、赤黒い鎖が次々と巻き付いていく。
剣を振り上げたまま、その場へ縫い付けられたように動けなくなった。
「なっ……!」
「身体が……!」
鬼神面は視線すら向けない。
興味があるのは、ただ一つ。
南京錠の向こうに眠る神宝だけだった。
王が床を強く蹴る。
「貴様ぁ!!」
渾身の一太刀が鬼神面へ迫る。
しかし。
鬼神面はわずかに身体をずらしただけだった。
刃は空を切る。
その勢いのまま王の懐へ踏み込むと、鬼神面は掌を静かに突き出した。
「穿式。」
術式が閃く。
轟音とともに赤い衝撃が弾け、王の身体が吹き飛んだ。
「陛下!」
兵士たちの叫びが響く。
王は床を何度も転がり、柱へ激しく叩きつけられた。
それでも歯を食いしばり、剣を支えに立ち上がる。
口元から血が流れ落ちた。
「……まだだ」
その姿を見ても、鬼神面の表情は変わらない。
静かに王妃へ歩み寄る。
王妃は石室の扉の前から一歩も動かなかった。
何重もの南京錠へそっと触れ、まるでその先に眠る神宝を守るように立ち尽くしている。
鬼神面は低く告げた。
「最後だ。」
「退け。」
王妃はゆっくりと首を横へ振る。
「退きません。」
その声は震えていなかった。
「この先へは行かせません。」
鬼神面は一瞬だけ王妃を見つめる。
「命を失うぞ。」
「構いません。」
王妃は静かに微笑んだ。
「私が始めてしまったことです。」
「だから最後まで、私が守ります。」
宝物庫へ沈黙が落ちる。
鬼神面は小さく息を吐いた。
「愚かだ。」
その右手が再び仮面へ添えられる。
術式がさらに大きく広がり、床石が震え始めた。
天井から砂が落ちる。
壁に亀裂が走る。
王はその異変に顔を上げた。
「まずい……!」
鬼神面は静かに呟く。
「滅式。」
術式が眩く輝いた。
次の瞬間。
宝物庫全体を飲み込むほどの爆発が巻き起こった。
轟音。
熱風。
砕け散る石柱。
瓦礫が雨のように降り注ぐ。
「王妃!!」
王は咄嗟に王妃へ飛び込んだ。
その背中へ激しい衝撃が叩き付けられる。
身体が宙へ浮く。
視界が激しく回転した。
頭を石床へ打ち付けた瞬間、鈍い痛みが走る。
耳鳴りだけが残った。
薄れていく意識の中、霞んだ視界へ映ったのは――
崩れ落ちる瓦礫の向こうを、ゆっくりと歩いていく鬼神面の姿だった。
男は迷うことなく石室の前へ立つ。
何重もの南京錠を見つめると、静かに右手をかざした。
赤い呪術が鎖を覆い始める。
「……開け。」
低い声が響いた。
その瞬間だった。
石室の奥から、淡く優しい光が漏れ始める。
王の霞む視界は、その光だけを映したまま、ゆっくりと闇へ沈んでいった。




