1-1 -ハンネス-
襲撃を受けたベルグラーヴを中心に、これから主要登場人物たちが集まってきます。
若く都会に夢を抱いているハンネスもその一人。故郷を捨てて旅立ち、王都へ向かう際の期待と希望が…。
ハンネス・フィルブリックはなけなしの銭貨で支払って、二等車に飛び乗った。鼻腔をチクチクと刺激する煤の匂いがするや、車両はぐらんぐらんと揺れ出した。笛の音が高らかになり響けば、いよいよ列車が走りだした。
これでようやく本島の北外れの港町ホスベリーから、王都であるエンフィールドに出られる。その安堵を抱きながらハンネスは車両を見渡した。座席は既に埋まっている。取り敢えずはと背を壁に預けて、そのままズリズリと膝をおって尻をつかせて座り込んだ。財布の中を確かめる。銭貨が十数枚だけである。これだと明日明後日の食費ぐらいしか残っていなかった。ハンネスは大きく息を吐いた。
――まあでも、何とかなるかな。
王都である。人足寄場に立ちよれば、当日払いの仕事が幾らでもある筈だ。若いハンネスは楽観的にそう割り切って、それ以上に考えることを止めにした。
手持ちの物は鞄一つ。着替えの類は入れていない。帰ってくる宛てはないので、嵩張るモノは持って行けない。鞄の中にはマッチ箱と人さし指ほどの長さの小刀、ホスベリーの警察局に勤める親戚に記してもらった紹介状、そして幼馴染に握らされた懐中時計である。
――アイリスには悪いことをしたな。
鼻から頬にかけてそばかすに、眦には涙を溜めて、それでも流しはしまいと強張らせての、ぐちゃぐちゃな顔をしていた。背が高く、いつも姉のように振る舞っている彼女が、別れの時は小さく弱く見えた。かけやる言葉が見つからず、ハンネスは逃げ出すように、後で手紙を出すからとだけ告げて踵を返して彼女に背を向けた。振り返ることはできなかった。
懐中時計には見覚えがあった。アイリスの父が持っていた。そして十五の誕生日のおりに譲ってもらったとアイリスが自慢げに見せていた事を思い出した。ゴツゴツとした古い型の海中時計であるが、少し羨ましさがった。
アイリスの父であるエドガーには頭が上げられないほど世話になっていた。両親よりも面倒を見て貰ったのではないか、とハンネスは顧みる。舫の結び方に釣り、マッチがない時の火の起こし方も教わっている。銃の撃ち方も、徒手空拳での戦い方の稽古もつけて貰っていた。未だ実戦で使ったことはない。
ホスベリーでエドガーの名は地元のマフィアも一目置いている猛者だった。喧嘩の絶えぬ町だったが、彼のおかげで喧嘩に巻き込まれずに済んでいると確信している。数年前に一度だけ、港場でお手伝いをしていた際に、一発殴ってみろと頬を差し出した酔っ払いがいた。ハンネスは彼に対して、顎下に掌打を撃ち込んだことがある。次の瞬間、男は尻もちをついて、焦点の定まらぬ眼でハンネスを見上げていた。がくがくと膝を震わして、最寄りの机椅子を使って立ち上がろうにも、一向にできないでいた。
ハンネスの父は漁師であり、遠洋に出るのが常だった。時としては丸々一年を海の上で過ごす。主は鯨であり、つまりは鯨油である。一度だけハンネスもその漁に連れて行ってもらった過去がある。直ぐに帰れるからと父は言っていたが結果として半年は海上に居た。
父の働く姿を初めて見た。船員として風を感じては素早くマストに登り上がり、綱を手に取っては帆を操る。足場の細い梁の上でも駆けるように進み、或るは帆を広げて、或るは帆を閉じる。背丈は人並みよりやや低く、細い身体つきをしている父であったが、だからこその仕事であり、その姿をハンネスはしっかりと追っていった。
また、鯨が姿を現せば銛を手にして、船の真下に姿を見せる鯨に向かって銛を突き立てんと船より飛び降りていく様も見た。肺腑より絞りだしたかのような叫び声をあげて鯨に向かう父の、刃のようにぎらついた眼に恐怖を覚えた。
身体の小さかったハンネスには、船上に引き上げられた鯨の、その頭部に開けられた穴から入って、脳天の油を汲み出す仕事が待っていた。このために連れてこられたのだとの絶望に、膝が震えたのよく覚えている。鼻が曲がるなんて生易しいモノではない、激臭に胸から上は嘔吐感に支配された。白と赤の世界の中へ身体中をべたべたにしながら何度も鯨の脳天に潜り込んで汲んで帰り、鯨漁は二度とゴメンだと叫んだ。殊に船酔いからようやく慣れてきた処での容赦のなさに、ハンネスの心の疲弊感は底まで落ちきった。
母はひたすらにそれを待つ。内職で縫物をしているが、それぐらいである。家の中にいても口数は少なく、しずしずと日が暮れるまでを送っている。それは父が海の上に居ることが平生であり、それを待つしかできない、もはや慣れも諦念もなく、日常に溶けてしまっているからだろう。
エドガーは近海で適当に魚を釣り上げて市場に卸す。稼ぎとしては鯨油に程遠いが、妻と可愛い娘の顔を毎日でも見られるからと自慢げに言い放っていた。言われたハンネスは苦笑いで応えるしかできなかった。
もっとも鯨漁もそろそろ潮時だ、と父が漏らしている。売れ行きがここ数年で落ちていっている。価格も崩れている。漁に出て足が出ないだけマシか、と呟いていた。
外を見ようと背と首を伸ばす。駅舎を覆う屋根が見えていた。その奥にホスベリーが広がっている。ハンネスが暮らしていた漁港市の辺りは更に遠い。駅はたちまちに小さく縮されていくよう。代わりに周囲の田畑の景が視界に広がっていく。灰の土をむき出しにしていた冬が終わり、緑が繁りだしていた。
――離れていく。そのことを実感した。
十の頃から王都へ行きたかった。独り立ちできるようならと母は言っていた。漁港に出て働き、カネを作って出ようと試みるも、期待の金額に届くどころか、カネが溜まらなかった。
――ずっとここでいいじゃない。
アイリスも共に漁港で働いていた。むしろエドガーの紹介で、アイリスの手助けをするような仕事ばかりだった。十歳になる頃から手伝いがてらに彼女はここに来ていた。ハンネスは教会学校に通った後、鯨漁に出ていった。仕事は彼女の方ができて当たり前だ。それを判っていながら、どこかままならない歯がゆさも覚えていた。
一方で、顔を合わせるとアイリスは頬に柔らかな笑みを浮かべていた。爪先立ちをしてようやく彼女と同じ身長差であり、たびたびハンネスの頭に手を乗せて髪をくしゃくしゃと撫でまわしていた。くすぐったさと恥ずかしさとで、ハンネスは顔を赤くしながら逃れんとするのだが、アイリスは満足そうに笑んで省みているようには見えなかった。頬が熱くなるばかりでハンネスはもどかしさを覚えていた。
――腰を据えて働きだしたら、おカネは溜まるよ。それで旅行に出る、とかさ。
アイリスが言葉を繋げる。しかし、ハンネスの心の中にまでちゃんと届いてはいなかった。
――それにホスベリーなら、不便はないんだしさ。
使い終わった桶を二人で並んで洗っている最中だった。面を上げれば、その時は黒い海が見えた。ずっとこの海を見てきた。しかし、鯨漁に出て、青い海を知った。釣れる魚も、吹き付ける風も日によって違っていた。硬く鋭く反り上げる風もあれば、柔らかく撫でるような風もある。灰色の大地ではなく、濃緑に草木の茂った森があり、頂を白く染めた山もある。自分の知らない世界がある。それを見てまわりたかった。幼馴染の言葉よりも、己の好奇心が勝った。
王都を選んだのは、都会への憧れもあるが、仕事があるから、というのが一番であるように思えた。カネが無くても、国一番の教会がある。普請の仕事も絶えずある、だろう。だから取り敢えずまず、王都だ。そう思い込んでいた。
懐中時計を鞄から取り出して、羽織っているジャケットの胸の内ポケットに放り込んだ。慣れるまでは、アイリスのぐしゃぐしゃな顔を思い出してしまう。でも、無造作にしておくのも、どこか心情的に申し訳なさがあった。
汽笛が鳴った。さらに列車が加速したように思えた。ハンネスは鞄を胸前で抱きしめるようにして、背を丸めた。列車のグラグラとした揺れが知りを通して伝わってくるが、慣れを覚え始めていた。
座席は埋まっている。皆、深く腰を掛けて、本を読むなり、目を瞑って寝るなり、隣の者と話すなりしている。足元には大きなカバンが据えられている。皆が王都へ向かっているようにハンネスには見えた。座席の空きを待つのも煩わしい。徐に顔を伏せさせて、眼を瞑った。眠っている内にエンフィールドに着くだろうと考えることを捨てて、時間が経つことだけを願った。
北の果てより、西の鉄鉱山の麓やら東の港街を通って南下していく。時間はかかるだろうと思っていたが、朝一番に出たのだから、日が高い内につくだろうと、ハンネスは勝手に思っていた。
列車の揺れに任せているも、やがて腰がびりびりと痛むように成ってきた。立ち上がり、壁に背を預けての姿勢にするも、そのままでは足が草臥れてくる。ちらと窓の向こう側を覗いてみると、緑の平原が海のように広がっていた。列車がいくら走れども、風に揺られて靡き影の波の他に変わる景色がない。最寄りの地図版でアナウンスされた駅名を探す。丁度、本島の東南を走っていた。海からも山からも適当に距離がある。川が流れているようだが、線路からはしばらく外れた処を流れているようだ。僅かな丘陵しかなく、地平線までも緑に染まっていた。ハンネスは鯨漁に出た時の海と重ねて眺めていた。
窓の外が赤く染まっていた。空腹にさすがにくらくらと頭が振り子のように揺れ出したハンネスは車内販売を見つけて、ブリオッシュと水を買ってやり過ごした。
何度も大きな駅には着いた。人の乗り降りを見てきたが、人の顔が入れ替わるぐらいで、空くような気配はない。むしろますます列車の中が混雑していく様であった。膝を追って尻もちをついて座ることはままならず、壁を頼りに背を凭れ掛けさせていた。
結局、エンフィールドに着いたのは、日がたっぷりと暮れた夜中であった。ハンネスは壁を伝うようにしてよろよろと歩きながら駅から外に出た。
微温い風が吹いていた。空は黒いが夜空ではない。見上げても星は一つも見えない。厚い雲に覆われているようだった。ただ一角だけ白と黄色の混じったような鈍い色が滲んでいる。そこに月があるのだとは一拍の間をほど考えてから判った。点々と設けられた街灯の明かりがぼんやり淡く道を照らしている。道は石畳で舗装されているようで、光の鈍く反射させていた。
――先ずは大聖堂だ。
なだらかな坂道を棒のような足で何とか登っていく。レンガ造りの瀟洒な構えをした建物が並んでいた。壁に触れた手は煤灰で黒く汚れていた。朱の混じった灯光をカーテンの隙間から漏らしている。また窓まで広げているパブもある。すでに日が暮れているというのに、店の中は人混みであり、男女を問わずジョッキを片手にしていた。その談笑がハンネスの耳にまで届いてくるのである。騒がしさは明るさ、楽しさであり、ハンネスは束の間、足を止めてパブの中を眺めていた。客も店員すらも、無邪気に笑んでいる。酒を飲んだことはないし、タバコも吸ったことはない。お前には未だ早いと止められてきた。羨ましさを覚えた。
坂を上りきりしばらく進んでいくと、高い壁が見えた。夜闇の中、橙色の灯に照らされても、それが白亜であると判る。赤と黒の制服を着た憲兵たちが篝火の側にて、小銃を手に直立姿勢で構えている。その奥に城がある。
――エンフィールドには二つの城がある。
エドガーがそんなことを教えてくれていた。
一つは閉じて国王が住み、もう一つは開かれて司教が住むハンネスは壁に沿って歩き続けていく。アルトワ大聖堂は城の奥に設けられていた。
――そこでなら、寝床と食を無償で提供してくれる。
慈善事業の一環として、聖堂は常に開かれている。長居となると話は別だが、手を差し伸べて救済することに意を成すとしていた。
他のことは日が昇ってから考えよう。そう割り切った。人足寄場の場所にしても、火の出ている内に街中を歩いて改めておく必要があると感じた。今は聖堂に向かって真っすぐに歩いているが、大きな曲がり角に用意されている案内板を逐一に確認しなければならなかった。
門柱に施された燈籠が見えた。焔は風に揺れながら信仰の印を模した刻を橙色と黒の深い陰影を以て映し出している。
門兵は設けられていない。門は締められているが、鍵が掛けられているわけではない。ハンネスが押してやれば軽く開かれていった。暗く厚い雲の下、見上げても尚、視界の上端にようやく収まるほどの高い楼閣を設けた大聖堂は、重く厳かに構えている。門扉より一歩、また一歩と進む度に、背筋が自ずから真っ直ぐに伸びていく心地がした。草臥れ果てたというのに、表情も引き締まり強張りすら帯び始めてくる。
木戸を叩いた。まもなく開かれて、中より白と紺の修道服を着た男が現れた。ハンネスは深く頭を下げての挨拶を済ませると、鞄より紹介状を取り出して男に渡した。
「遠くからいらしたのですね」
「よろしくお願いいたします」
もう一度、ハンネスは頭を下げた。男はしばらく紹介状の文言とハンネスの顔を交互に見ていた。
「どうぞ、お入りください」
戸が大きく開かれて中へと案内される。ようやくの思いがハンネスにはあった。紹介状は男が手に持ったままで返されなかった。そのことにも首を傾げた。
広間に案内された。ハンネスと似たように宿のない者たちが、思い思いの処で腰を降ろして寛いでいる。適当に他の者達と距離の取れる壁際を探し出して、ハンネスも腰を降ろした。隣の部屋に食事の用意があるとも教わっている。それは一息ついてからと、取り敢えず壁に大きく凭れかかり、深い溜息を吐いた。瞼が重たくなってきた。身体もグラグラと左右に揺れているよう。うとうととそのまま眠りについてしまいそうであった。
「君が、ハンネス・フィルブリック君かな」
声が聞こえてきた。重たい眼を開かせて見上げれば、男が立っていた。白と紺の服装の先とは違う男だった。無精髭に、鈍く汚れた金の短髪に眼は細く尖りがあった。
ハンネスは速やかに立ち上がり、頷いて答えた。男の手にはハンネスの紹介状があった。
「ユーリ・レイフィールドだ。総務局で巡視官をしている。君にいくつか訊ねたいことがある。着いてきてくれないか」
巌のような手がハンネスに向けて差し伸ばされた。堅い芯のある言葉に拒絶はできなかった。恐る恐るその手を握ると、潰されそうなぐらいの強さで握り返された。
ユーリが踵を返して進んでいく。ハンネスは黙したまま、彼に着いていくしかなかった。
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