7-1 -フラッグ-
頂きにはまだ雪が残っていた。吐く息には白濁の靄がかかっている。フラッグは身を窄めさせながら、岩道を歩いた。
「もう少し行けば、休める場所だ。今日はそこで一泊だな」
先頭を行くトーマスが言った。身の丈ほどあるバックパックを背負い、毛皮のチョッキに、フードを被って歩いていた。両手を岩に置き、掻い分けるようにして進んで行く。フラッグは、彼の足跡をなぞるように歩を置いていった。
山に登っていた。高山であった。ここにしか生きない草花がある。それらは高値で教会に卸せる。そう聞いて、トーマスとともに支度を整えて、山に入った。ここに辿り着くまで、一週間を要した。丸一か月はつぶれると、端から覚悟している。それに余りある返りがあると、トーマスから聞いていた。
吹く風は身体を剃り上げるような厳しさだった。それでいて日中は、灼けつくような陽射しが肌を襲う。息苦しく、早く深い呼吸を繰り返していた。
日が傾くにつれて、空気は凍てつくようになっていく。臨めば陽は見えるが、早く寝床を構えて暖をとらなければ、凍え死ぬとフラッグは直感した。現に、この山に登っている最中に、獣の死体が転がっていた。喰われた痕もなく、トーマスは嬉々としてこれを拾い、焼いて食おうと言った。心まで冷える瞬間であった。トーマスの背嚢の紐に括り付けられており、歩みとともに左右に揺れていた。
岩を触ればシャリと音が立つ時があった。雪に手を入れていたのは、目を凝らしてようやく気がついた。
「そういえば、昔、あの山へ向かったヤツがいたな」
言いながらトーマスが指したのは、遥か東北に聳える山であった。ギザギザと鋭い稜線にひときわ高く、天にまで届く頂があった。
――高所で採れた薬草は高値で売れる。それを仮説として、より高所であれば、より高価で取引できると算じたのだろう。
「その後、どうなったんです?」
ぜいぜいと息を吐きながら、訊ねてみる。
「帰ってきていないよ。死んだんじゃないかって、誰か確かめに行かないとって言いあって、もう十年が経ってるな」
「十年も前」
「そもそも、この山も、これ以上は登れない。眠たくなって、一休みしている内にご臨終だ」
遺骸は山に置かれたままになると、トーマスは続けた。この高度であっても、人を負って山を降りるのは難しいと、フラッグにも肌で感じていた。さらに上と成れば猶の事なのだろう。
「登ってみたくはありますけど」
フラッグは剣のように聳える東北の山の頂に顔をやった。
迂回を重ねてきた。その中で、氷の壁があり、山肌の深い亀裂を見てきていた。そう言った理由で、かなりの時間を要していた。氷を噛むような靴や道具があれば、もっと早く、より高くへ登れるのだろう。フラッグは眼を細めながら眺めた。
「神の山領だ。人間には登れんだろうよ」
トーマスは言葉は険しさを帯びていた。面もちも厳めしい。
「――神、ですか」
「そうだ。教会が拝めるような、ちゃちなモンじゃない、山の神だ」
「はあ」
トーマスの言い切りに、フラッグは少し圧された。生返事をして、彼の背中についていく。
教会を嫌っている傾向は知っていた。処方された薬を用している際、怪訝な面持ちで、効くのかと執拗に聞いてきていた。薬草を卸しているのに、と訊ねれば、カネになれば何でもいいと答えるだけである。
トーマスは新しく領主となったカーライルにも不信をたびたび漏らしていた。それはフラッグも同意だった。つい先日も、人員を二倍にするから、収穫を四倍にできないか、と惣に持ち掛けたらしい。商人上がりの、それも娘である。物を知らないにもほどがあると、怒りを通り越して、呆れを抱いていた。トーマスも似たような感想を漏らしている。
しかし、フラッグは教会の疑念は持っていなかった。
――山の神。
トーマスの口から初めて聞く言葉である。しかし、山に入る彼の、彼なりの祈りの証なのだろうと、フラッグは気に留めなかった。むしろ、山の神がいるのならば、この岩場をもうすこし歩き易くしてほしいと、心内で毒づきながら、足を進めていった。
しばらくすると、窟があった。トーマスが顎を振って、入るように促してきた。体力を絞り出して、小走りとなって向かっていった。
「今日はここで一泊だな」
トーマスはそう言いながら、適当に火を熾した。
「そうなると、明日は薬草採取の場に――」
「まあ、そうなるな」
フラッグの問いには無造作な返事だけが返ってきた。背嚢を降ろしており、火の上に獣の遺骸を据えていた。
「このまま、丸焼きにするのか?」
「ちょっと焙ってから、中のモンを取り出すんだよ。心配するな。それに久しぶりに肉が食えるんだぞ」
薬草摘みにしても、食料にしても、トーマスに任せきりである。フラッグができることは、荷物持ちと補助ぐらいなものである。保安駐在所から離れて、畑の手伝いと、トーマスの補助で糊口をしのいでいる。
未だ音に反応して、身体が硬直する。それが治らなかった。生活音や風の音ぐらいながらいいのだが、雷の轟き、何より銃声には、背筋が緊張に伸びきって戻らなくなる。
教会から処方されてた薬で、平生はやり過ごしていた。何もせずにぶらぶらとするぐらいならば、これで良かったのだが、生きるためには弱かった。
昨冬より、トーマスが壺を一つ、持ってきた。刻まれた葉が詰まっていた。これを紙に巻いて吸ってみろと言われた。肺にまで届かせるように吸ってみると、身の内が軽くなるような心地があった。
悪戯にトーマスが銃声を響かせた時があったが、瘧のように身体の震えが止まらなくなるようなことはなかった。驚きに身が詰まるような瞬間はあったが、後はため息一つで流せた。
その日から教会の薬は止めて、フラッグはこの刻み葉を吸うようになった。これがあれば、乗馬も銃の発砲もできる気がした。もっとも、この二つはトーマスから止められていた。
山に登ったのも、この葉があるからであった。どこで作られた、何の葉であるかは聞いていない。それは教会から処方された薬でも、聞いた試しがない。そもそも興味がないからである。効けばいい。要はそれだけである。
背嚢を降ろして、中から荷物を取り出す。刻み葉も取り出しておいた。しかし、これで備蓄分もすべてなくなってしまっていた。
休憩の度に吸っていた。試しと渡された時には、一日一服と限っていた。いつの間にか、二服三服となり、今では一刻毎に吸うようになっていた。今も吸いたさに、うずうずと指先が揺れている。
刻み葉を一つまみ。それを紙で包む。水を一滴ほど垂らして、紙を湿らせるとともに、葉から滲み出てきた色を吸う。苦みが舌を襲うが、それが過ぎれば、肺腑が溶けるような心地になる。頭からつま先までの疲れが、落ちて流れていく。そして身が軽くなっていく。そんな心地がするのである。
「あんまり吸い過ぎるなよ」
トーマスがそう言うが、彼の手元にも同じものがあった。
「ちょうど切らしてしまったんで。また売ってくださいね」
「そりゃあ、もちろん」
ゆっくりと息を吐く。これで疲れが取れる。明日の為にも、欠片も残しておきたくはなかった。
費用は教会の処方薬とは比べ物にならないほどかかる。それでも、フラッグは効く薬を選んだ。稼げばいいと単純に考えた。だからこそ、今、山に登り、高山に生える薬草を狙っている。
軽く燻した獣の死体を、トーマスがばらしていく。眉根を寄せてしまうほどのべったりとした脂の匂いした。フラッグは背嚢から小鍋を取り出して、水を注いで、火の上に用意した。沸騰の頃を見計って、トーマスが切り分けた肉を放り込んでいく。
「帰り道の分は、大丈夫かな」
「大丈夫だ。問題ない」
鍋の中に乾パンも投げ入れる。水を含んでべろべろとなった時に、吸うように食べるのである。
「今日のは肉の出汁でも吸って、少しは旨くなってればいいな」
言いながら、登る最中に採取した香草を入れて、煮詰めていく。これで少しは匂いが和らいだ。
「期待するのもアレですけどね」
苦笑いを浮かべて、トーマスは応えた。味は薄かった。それでも腹に納めた。
食事を終えて、一息つく。そのまま横になってしまう処だったが、息を吐くとともに、この窟が気になった。火を熾したところより、さらに奥が広がっている。
フラッグは手燭台に火を移して、奥へと向かった。
百歩も歩かなかった。行き止まりはすぐに来た。真っすぐに伸びただけであり、窟の出入り口も、確認できるぐらいであった。
――なんだ。
そう消沈しながらも、白い棒きれが視界の隅に写っていた。
白骨だった。丸みを帯びた頭部もある。人骨であった。フラッグは息を飲んだ。
骨はきれいに揃っている。脇には猟銃が一丁、置かれている。
「ああ、これか」
のっそりとトーマスが近寄ってきた。フラッグが伸ばした腕より先に、引っ手繰るようにして猟銃を手に取っていた。
「一年ぐらい前から転がっていたんだ」
「身元は?」
「不明だ。調べていない」
「どうして――」
ガチャガチャと猟銃を確かめながら、トーマスは応えていく。
「どうしても、こうしても、骨と銃だけじゃあ、どうにも調べられないだろう」
見つけた当初から、衣類も肌もなかったそうだ。
「まだ虫が集っていてな。おかげでここが使いづらかった」
いいながら無造作に猟銃を投げおろした。
「掃除すれば使えるかもしれないが、荷物は軽いほうがいいだろう。それに、その分、薬草を詰めないと、カネにならないしな」
「それはそうだが――」
どこかしらかで、身元を特定できなかとフラッグは探っていた。手燭台で遺骨の周りを照らしてみる。他の遺品は見当たらなかった。
「実包もないのに、猟銃だけ抱えてここに来たんですかね」
「さあな。死人に口なし。そんなことは判らない。それよりも、そろそろ寝よう。明日も早いぞ」
無造作な返事だった。踵を返して、元の場所へと戻っていく。
フラッグは恐る恐る、骨を手に取ってみた。頭蓋骨に、頸椎、肋骨まわりを検めてみる。傷痕らしいものは見当たらない。もっとも、窟内に一年以上も転がっていたのである。ガサガサと欠けや崩れは、幾らでもある。経年によるものか、外傷かを見極められるほどの知識を、フラッグは持ち合わせていない。
仕方なく、遺骨から距離を取った。ただ猟銃は拾っておいた。トーマスはああ言っていた。確かに尤もな言葉である。その上、帰り道のことを考えれば、邪魔にしかならない。
それでも、持ち帰って、保安隊に調査を頼めば、何か明らかになるかもしれない。
――これが、トンプソンの成れの果てだったならば。
行方知れずが続いている。保安隊も、惣でも、皆が死んだものとして、思い出すこともしていない。ベルグラーヴを渾沌に陥れた男である。
「持ってきたのか」
嘲を含んだ、トーマスの声が聞こえてきた。
「邪魔になった時に、捨てます」
「火は消すなよ」
「判っていますよ」
手燭台の灯りは消して、ごろりと横になった。ゆっくりと深い呼吸を繰り返しながら、目を瞑る。猟銃を抱きしめるようにして、身を丸めていた。
きりきりと頭を締め付けられるような痛みがあった。刻み葉をもう一服と心内が誘って来る時があったが、これを握り締めるようにして耐えた。
目を閉じて、ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。眠りに落ちるまでも、息を整えて、身体を休める。そのことを意識した。時折、風が窟の中にまで吹き込んでくる。春は来たはずなのに、髄まで震えるほど冷たい。ぎゅっと、力いっぱいに目を瞑り、歯を喰いしばっていた。
どれくらい、そうしていただろうか。視界は真っ暗闇のまま、意識がうつらうつらと浮遊するようでもあった。風が吹き込む時だけ、鋭く刺さるのである。
――コン、と頭を突かれた。
石でも当たったのかと思い、フラッグは眼を開いた。黒い靴が視界を捉えていた。そして、額と爪先が蹴り上げた。
「おい、いい加減に、起きろ」
男の声だった。フラッグは額を押さえながら、身体を起こした。白いコートを羽織った男が二人、居た。トーマスは背嚢に荷物を詰めている最中だった。
「こいつも連れていくんだな」
「ああ、頼むよ」
男の声に対して、振り返りもせずにトーマスが応える。
「五分後に出るぞ。ぐずぐずしていると、日が暮れるからな」
唾を飛ばすような口調だった。フラッグは、眼を擦り上げながら、トーマスの下に寄ろうとするも、白コートの男に阻まれた。自身の支度をしろとのことだろう。
「一体全体、どうなっているんだ?」
声だけ出して、トーマスに検める。彼は振り返りもしなかった。
「言っただろう。薬草を摘みに行くんだよ」
彼の口から、その他の言葉は出てこなかった。
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