6-3 -レイチェル-
カーライル邸の内部をレイチェルの視線から。なぜだろう、とても久々なような気がする。
ルシアナが一人でレイチェルの前に現れた。これは珍しいことではない。フェリルの用を伝えに静々、淡々とやってくる。面倒ごとばかりを運んでくるので、レイチェルは半眼で相対するのが常であった。
しかし、今日は雰囲気が違う。黒い長い髪に黒い長いまつ毛。端正なつくりの顔に眉根を寄せての、憂を多分に含んだ表情をしていた。
「どうしたのかしら?」
フェリルは朝から外出している。ルシアナを残しての外出となると、確かに珍しくもあるが、内容と陣容を聞いて納得がいった。ベルグラーヴの惣の集会に赴き、田畑の倍増の計画を話すという。出納帳簿を毎日のように開いているレイチェルからすれば、肝要の施策である。そして、向かった面々は、フェリルと、アーネスト、レヴィンの三人である。下手に攻撃性を出さず刺激せず、領主の背後には、大人の男性がきちんと控えているという保守的な匂いを感じさせる。ルシアナは、フェリルのボディーガードとしての攻撃性と、女であり、その上、大陸や本島の生まれではない黒髪や顔立ちから、外されていた。
――余所者として警戒される。それを解くまでの時間が惜しい。
そう判断したのだろう、とレイチェルは推しはかった。実際に、ルシアナは、アダム・カーライルがフェリルへのプレゼントとして贈られた娘である。本島の娼館で売られていたとも、孤児として拾われたとも、あるいはアダムの彩華でできた愛人の子供だとも聞いている。以来十年以上をフェリルの側で居続けている。フェリルよりも淑やかたる佇まいを感じさせる時すらあった。
レイチェルはこの女が好きではなかった。ペンを片手に、机に肘をついたままの姿勢で、訊ねた。ルシアナは変わらず、表情を歪めたまま口を開いた。
「フェリル様から、お二人にこちらの依頼がありまして」
書類を一枚、差し出してきた。レイチェルは大仰にため息を吐きだしてから、ひったくるようにして、その書類を手に取った。手書きの文字が上から下までびっしりと書かれている。
「フェリル様からの清書依頼ね」
角ばった癖のある文字からすぐに判った。レイチェルの言葉に、ルシアナは黙したまま、肯じた。アイディアと要件を走り書きした用紙を寄越して、清書を求めることはしばしばあった。特に、本島の総務局やロシュの役場への陳情書の際は正確にして麗美な文字を求められた。
「メリル、お願いね」
言いながら、隣の机に紙を置いた。メリルはいつものように、眼鏡の奥にふわふわとして柔和な笑みを描いている。
「はい、畏まりました」
緊張感の薄い、軽い返事であった。ただ、こういった仕事は彼女に任せるのが一番であった。速度はこそこそながら、確実に遂行してくれる。
「これ、本島の警務局とロシュの軍宛ではないですか」
「ええ、先日の砦の件を受けて」
「犯人探しに軍隊を動かすつもりなのね」
経理担当として、ここ数日も頭を悩ませる事態が立て続けに起きていた。砦の補修現場での事故は最たるものであった。ローランドに工数計算をやり直させて、人足の数から完了までの経費とともに、治療費の算出をする。赤字は膨らむばかりである。その上に、フェリルは輸送事業の計画書を描いて、予算の計上の指示を出してきた。
――そんなカネはありません。
レイチェルはフェリルに対して、そう叫んでいた。出納帳を毎日開き、記録をつけているレイチェルには、赤い文字が膨らむことしか見えなかった。いよいよ爆破しそうなほど膨れ上がっている。フェリルは細い眼を束の間だけ、丸く広げさせた。すぐに、怜悧な表情に戻した。
――心配させて済まないな。
彼女からの言葉はそれだけだった。そのあとすぐに仕事の話に移った。消耗品の調達の話である。
――どうするつもりなの?
的確な指示であったが、レイチェルはフェリルの瞳の奥を睨むしかできなかったのを覚えている。
「さすがに、カーライルで兵隊を集めてってことにはならないようね」
「そんな。まさかフェリル様は戦争でも始めるつもりですか?」
軽々としてメリルの声が聞こえた。彼女の明るい響きが、なんとはなしに、安堵を運んでくれる気がした。一方で、ルシアナの表情は陰りを多分に含んだままであった。
――でも、そんなものはおカネの流れを見ていれば判る。
「取り敢えず、犯人は森の奥に隠れた。つい先日、森の奥で煙が一筋昇っているのを確認している。それを調査するためにも、隊をだせとしています」
「十分に武装した集団でね。相手は誰だと睨んでいるの」
「それは、わかりません。フェリル様はアストラやドライゼの斥候部隊ではないかと睨んでいます」
「まあ、そうだろうね」
ベルグラーヴは二つの国と隣接した土地である。高い山と深い森に隔たれているだけであり、もう分程度の関所が構えられているだけの片田舎に過ぎない。虎視眈々と領地を狙われていてもおかしくはない。エンフィールドはベルグラーヴの襲撃をロシュの軍で制圧するよう陣を組んでいる。その上何より、両隣の国は、昔々ベルグラーヴを領土としていた。――未だに、我が国の土地とかね。レイチェルは嘲を含んだ鼻息を吹いて一蹴している。しかしながら、砦の補修の邪魔をするもの、ベルグラーヴを襲撃する者を考えれば、真っ先に思いつき、納得のいきやすい対象である。
「で、その物騒事に、どうやってロシュの軍隊を動かすつもりなの?」
「一部を、カーライル家からも出すことで動いてもらうようです」
「カネを?」
「ヒトを」
消耗品の中に、弾丸実包や火薬が含まれていた。その他にも、エンフィールドの本家カーライル家へのカネの動きもある。貿易であらゆる先にパイプを持つ。そこに流れれば、おおよその物が仕入れられる。レイチェルも薄々感づいてはいた。誰が、どれ程の数が、はまだ判らない。予想はできている。砦の補修作業に駆り出されている人足たちだ。特に、船に乗って大陸に来た連中は尽くだろう。
「惨事にならなければ、いいけれど」
レイチェルはこれ以上、推測を深めていくのを辞めた。投げ出すような軽口で、ルシアナに言う。彼女は「そうですね」と噛み締めるような返事をしてきた。
「仕事が増えるのだけは勘弁よ」
「それは、申し訳ありません」
「この程度の清書ぐらいなら、貴方でもできるでしょう?」
「私は字が巧くありませんから」
この屋敷の中で、最も筆跡がキレイなのはメリルであろう。その次にレイチェルか、アーネストとなるのだろう。ルシアナの筆跡は、可もなく不可もなしとレイチェルは評している。公式文書として残すにしても、彼女の文字でなんら問題はない。
「その、フェリル様の指示ですので」
「はいはい。そうですか」
額に手を当てて、レイチェルは微温い嘆息を吐き出した。彼女の言葉には呆れしか出てこなかった。フェリルより大人びた顔立ちをしているのに、どうにも幼さが出てくる。
「終わったら、執務室に持っていくわ」
手で追い払ってしまいたいところを堪えて、ルシアナに向かって言い放つ。しかし彼女は、手を組んだまま、踵を返そうとせず、俯いたまま、口を噤んで立っていた。
「どうしたの?」
眉間に皺を寄せて、訊ねる。口調には棘が帯びていた。フェリルの側に常に立ち、彼女とともに育った。才覚も悪くないと、レイチェルは評している。それでも、――このざまは何だ、と彼女の陰りの射した表情を見ていると、胸の中に蟠りが沸き立ってくるのである。
「心配なのです」
ぽつりとつぶやく声が聞こえてきた。吹けば飛んで行ってしまいそうな声であった。
「なにが」
「フェリルお嬢様が」
じっとルシアナの顔を見つめる。黒い瞳が震えていた。組んだ手にも、力が込められているのか、一瞥だけでも巌のような硬さをレイチェルは覚えた。
「――そうね。私も心配だわ」
ペンを机上に置いて、徐に立ち上がった。
「メリル。休憩にしないかしら。ルシアナ、貴方もつきあいなさい。そんな辛気臭い顔されたんじゃ、ペン先だって重くなるわ」
手元灯の火を消して、窓を少し開けた。煤やかな風が吹きこみ、レイチェルの髪を躍らせた。
「じゃあ、私はお茶とお茶菓子を用意してきますね」
「エドかミアに頼みなさいよ」
「それは勿論。わかっていますよ」
スカートの裾を少し持ち上げて、メリルが部屋から出ていった。長時間、机に向かい続けていて飽きが来ていたのだろう。足取りは弾んでいるようであった。
「いいかげん、座ったらどうかしら」
最寄りの椅子を引く。ルシアナはおどおどと身を縮こませて、「ありがとうございます」と呟くように言った。
「そんなに怖がらないでよ。叱るわけじゃないんだから」
「いえ、そうなのですけれど」
ようやく腰を掛けて座る。フェリルとともに、しつけもされたのだろう、背筋をまっすぐに伸ばしたままの姿勢。長い黒髪に、嫋やかに整った面持ち。
「あなたがなんだか羨ましいわ」
「そんな。私なんて――」
「そうやって謙遜しないでよ。私の感情を否定しないで」
ルシアナの言葉を遮り、レイチェルは言い放つ。自身の愛用の椅子を近くに持ってきて、腰を下ろした。長い脚を組んで、腕を組んで、相対する。ルシアナが小声で「すみません」と口を動かしていた。
フェリルの補助とボディーガードとして、彼女は責務を果たしている。それはレイチェルも認めるところである。ただフェリルの後ろに立たない彼女の、内側に向かっていくような視線と態度が好きになれなかった。
「で、フェリルが心配だって言っていたけど。どうしたの」
「――」
しばらく、ルシアナは口を噤んでいた。途中、メリルが部屋に戻ってきた。彼女はルシアナの眼差しから何かを察して、黙したまま自分の椅子に座った。
「ここ数日、全く休まれていないのです」
「それはまあ、これだけ忙しくされていたらねえ」
鷹揚に構えて、レイチェルはわざと挑発的に返す。ルシアナは首を横に振ってから、再び口を開いた。休んでいないのは、こちらも同じだとは心内の返事として口には出さなかった。
「夜更けまで机に向かい。就寝を促しても拒まれるのです。ついには執務室の机で寝るおられます。このままではフェリル様が倒れるのではないかと心配で」
「そうね。それは心配ね」
急に前のめりの勢いで話し出したルシアナに、レイチェルは少しだけ身を反らせて言葉を受けた。
「ホスピンでも打たれているのですか?」
メリルが口を開いた。
「いえ未だ。今、教会に掛け合って、取り寄せている最中ですけど」
「そうですか。避けるべきですよ。そのまま目が開かなくなる場合がありますから」
ふわりとした雲のような口調ながら、内容に針があった。すぐにレイチェルはメリルの顔を見やった。相変わらず、眼鏡の奥に柔らかな瞳を携えている。
「あれは体力の前借りですから。借り物が過ぎれば、限界が来ますよ。それは」
「どうして――」
「私は見ましたから。ここに来る前に」
表情は崩れない。レイチェルはメリルの瞳の奥を伺うように視線を送る。ベルグラーヴに派遣されるまで、メリルとレイチェルは別々で働いていた。成長しているようには見受けられてなかったが、彼女なりに見てきた世界があるのだろう。でまかせや嘘を言っているようには見られない。
「フェリル様の代わりはいない。それを自覚されているからこその無理かもしれないけれども――」
「そうですね。フェリル様しかいらっしゃらないのですから、倒れられたら困りますよね」
ここでノックが響いた。声をかけると使用人のミアがティーポットと茶菓子を持って現れた。気晴らしに甘い物が丁度いい、として、ミアを交えて一息の時間を迎えようとしていた。
「今、帰ったぞ!」
開いた扉の大奥より、大声が響いてきた。直ぐに反応したのは、ルシアナであった。イスを蹴って立ち上がり、「フェリルお嬢様」と叫んだ。レイチェルは呆れを覚えながらも、手で扉の方を促す。彼女は深い一礼をしてから、部屋を出ていった。
「私たちも、迎えに行きましょう。よければ、フェリル様をお茶に誘いましょう」
「そうね。それがいいわね」
メリルの呑気の提案に、レイチェルは投げやりな感じで肯じた。ミアにお茶の支度を続けるよう頼んでから、二人して部屋を出て、ルシアナの後を追うようにして、玄関へと向かっていった。
「まったく、聞き分けのない奴らだ」
フェリルの怒気の孕んだ声が廊下にまで響いていた。しかし同時に、その言葉の勢いがとぎれとぎれに放たれているようにレイチェルは覚えた。
「お嬢様。フェリルお嬢様」
ルシアナの叫びが聞こえてきた。レイチェルとメリルは駆け足になって玄関に向かっていった。
果たしてそこには、フェリルがルシアナの腕の中でぐったりと倒れこんでいた。
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