6ー1 -ハンネス-
国と教会の陰謀に、カーライル家の野望。
輸送を中心にベルグラーヴの発展をどう動かすか。
それを外的な視点で。
後はすっかり様変わりしたハンネスですかね。
午鍾を打ち終えたハンネスは、楼より降りて、食事を摂っていた。沈丁花が咲いていたことに、春の来訪を感じたのはつい先日だった。ハンネスが落ちた山茶花を掃き集め、雛菊の花壇に水をやり、沈丁花の香を楽しんでいることに、クレアは眉をひそめながら驚いていた。その光景からまだ一週間も経っていない。未だ長袖が欲しくなる気候ではあるが、ホズベリーよりも暖かく、なにより空の色が淡い青色で、ハンネスには清々しく感じられた。
馬が猛然とした勢いで駆けてきたのは、その時だった。重い馬蹄の響きで身体が揺れさえしていた。
騎手の男が息を切らしながら、状況を叫んだ。カーライル家が建て直している砦で、崩落の事故が起こった。怪我人が出ているので、教司のリディアを呼びに来た。
「すぐに伺います。クレア、ハンネス、行きますよ」
「いえ、この場合、クレアのみの方がよいでしょう。自分は教会に残って、後詰めの待機をしております」
「どうしてよ」
クレアが鋭い声を上げた。
「ベルグラーヴが襲われた――、ランベール教司が襲われた際のご状況をお忘れですか。保安駐在所がトンプソンの襲撃に駆り出されている最中、教会が攻められたのですよ。その逆もあり得ます」
これでクレアが口を噤んだ。眦は尖り睨みを利かせているが、ハンネスは気に留めもしなかった。ただリディアの、やや垂れ下がった眼の奥に控えている碧色の瞳に、畏を微かばかり覚えた。ハンネスは細い眼差しをリディアに向けて抗した。
「村からも何かあるかもしれません。そのために、控えるのは当然でしょう」
「判りました。ハンネス。教会は頼みますよ。クレア。直ぐに支度をしましょう。消毒液と包帯を持てるだけ持っていきましょう」
保安駐在所へも報告の馬は向かっていると男は言っていた。現場で応急処置が施されて、保安駐在所や併設の診療所で改めて治療が行われるのだろう。余りにも重篤の場合は、ロシュへ行く必要が出てくるが、そうなってしまっては、ベルグラーヴのハンネスやリディアのそもそも出る幕ではない。
地下よりリディアとクレアの二人が厚くなったカバンを両手に提げて現れた。ハンネスは黙したまま、リディアのカバン二つを取り、離れの厩へと足を向けた。
「耐えられますかね」
「耐えてもらわないと、困ります」
リディアが一人で馬に乗ろうと手綱と鞍を持ってくる。しかし、クレアが制した。ハンネスも、彼女が馬を駆けさせることができないのは知っている。
一頭にカバンを四つ提げさせて、リディアを抱きかかえるようにしてクレアが手綱を握る。背筋をピンと伸ばして、手綱を捌いて馬を操る。馬の扱いは、ハンネスよりも遥かに長けている。長いまつ毛に端正に通った鼻立ち。その姿には目を見張るものがあった。
「では行ってくる」
「気をつけてな」
それだけ返事をした。クレアが束の間、眼を丸くさせた。
「ああ、行ってくる。教会は任せたぞ」
直ぐに表情を引き締め直して、手綱を引いては、馬腹を蹴った。嘶きとともに馬蹄の音を立てて、駆け消えていった。低く重い馬蹄であったが、駆ける速さは見事であり、すぐに小さく、姿は見えなくなっていく。
――これで良い。
ハンネスは一つ息を吹いた。肺腑の奥底から出てくるような、重さがあった。
――誰がカネを出しているのか。その出元はどこにあるのか。それは頭の中に入れておけよ。
頭の片隅に、常にその言葉が用意されている。だからこそ、常に気を張って、リディアの守護士としての勤めが果たせられている。ハンネスは、そう算じていた。
青さを覚えるほどの肌に鉄板の籠手と脛当てを括り付け、それをだぶつくほどゆとりのある上下で隠す。万が一のために刃物を腰に携える。ユーリに徹底的に鍛えられた。その後、ロシュの軍に放り込まれた。ホズベリーを出て一年以上が経過している。王都に憧れて列車に飛び乗り、まさか大陸へ渡り、山奥の田舎ベルグラーヴに流れるとは、露にも思わなかった。
――カネは出す。しばらく我慢したら、王都の仕事も紹介してやる。
寝床がなく、王都の教会で休んでいたハンネスに、ユーリは確かにそう言った。パンとシチュー、そし
て温かい寝具を一晩だけ工面してもらった。その結果が、ベルグラーヴでリディアの守護士である。田舎者のハンネスであっても、教司の守護士の勤めの意味ぐらい判っている。そして、自分は大聖堂へ差し出された。向けられる視線の意味は、肌がひりつくほど感じている。
――しかし、自分はここで、こんな処で死ぬつもりは毛頭ない。
組手で、クレアの実力のほどは肌で覚えた。たとえ背後から襲い掛かられても、問題なく対処できるとハンネスは評している。彼女のみリディアを守護しきれるのか不安を覚えていた。
今日の場合は、クレアのみでも対応できるだろうと推している。相手を倒すことが守護士の役目ではない。教司を守り抜くこと。その場を切り抜け逃げることならば、彼女でも十二分にできる。
馬蹄の響きも聞こえなくなった。ハンネスはゆっくりと踵を返して、教会の中へと入っていった。
聖堂を抜けて、居住の区画に入る。先ずはリディアの書斎へと入った。ハンネスが余り立ち入ることのない部屋である。
ここに机とベッドも設けられている。執務を行うのも凡そこの部屋であるのを、ハンネスは知っている。
ようやく二人から距離を取ることができた。しかし、ハンネスは気を緩めることを堪えていた。神経を張り、耳は澄ませる。むしろ繊細なほど注意を払った。
クレアは未だに訝し気にハンネスを観ている。不信を積もらせて、大聖堂へ報告されれば、自身の処分で済む話ではなくなるのは、想像ついている。ハンネスを差し出したユーリ、ひいてはエンフィールドまでも、大聖堂と対立をさせかねない。
ドタドタと鈍重な響きが聞こえてきた。ハンネスは壁際に寄りひっそりと外を検める。馬が数頭、駆けている。凝らして見やれば、馬上の者たちは、前傾姿勢をとって、正面だけに顔を向けている。事故の起きた砦の現場に急行している者たちだ。恰好から、保安駐在所の面々だと見て取れた。
息を入れ直す。背筋から冷たい汗が噴き出すような心地があった。
――ランベール教司は、なんで殺されたのだろうな。
雪の降っていたある日、所要として教会を訪ねていたユーリが、門前で佇むハンネスの横に立って、そう呟いた。
ハンネスは視線を配るだけで、返事はしなかった。察しろとの圧だけを感じて、教会の警備に当たった。ユーリも、返事を期待していないようで、燻らしていた煙草を、雪の中へ投げ捨てていた。
机上はみごとに片付けられている。書類などは見当たらない。積まれている書籍も、経典の原書である。念のためと、捲ってみるが、どのページを開いていたのかすらも、判らない。
抽斗に手をかける。封筒がいくつもしまわれていた。送り主を確認してみる。大聖堂やロシュの教会からのものが殆どだった。内容にも目を通してみるが、平生の報告と大書の相談。そして、論文の討議ばかりであった。ランベール教司や実兄のジャンについては、一文字も確認できない。
口を噤みながらも、奥歯を軋ませる。封筒を元に戻して、さらに奥を探るも、空振りに終わった。書棚を改めて見回してみても、違和感はない。薬草についての書籍が多く並べられているが、それはリディアが製薬を行っているからであり、教司の役目として、なんらおかしくはない。
かすかながら、カラカラと音がハンネスの耳に入った。ハンネスは書斎が元の通り正されているか見渡してから、外に出た。
馬の嘶きとともに、ゆったりとした馬蹄が聞こえてきた。早歩きになって、ハンネスは教会の門前へと向かった。
「やあ、リディア君を呼んできてはくれないかな」
馬車に曳いて現れたのは、いつもの督郵の男だった。名前はジェイコブと聞いている。丸い輪郭に狐目の、でっぷりとした身体つきの男である。
「ただいま、再建の砦の方で、事故が起こりまして。クレアとともに、向かっております」
「そうか。ならしかたがないな」
のったりとした動きで馬車から降りて、幌幕の裏に丸い身体を隠した。
「注文の薬と大聖堂からの文書を届けに来たのだがな」
「文書は私から渡しておきます。薬につきましても、伝票との突合なら、できます」
「そうか」
声だけが聞こえてきた。恬淡とした乾いた返事だった。
「まあ、大丈夫だろうよ。手伝いの婆さんに託したこともあるしな」
ハンネスも幌に近寄る。ジェイコブは何も言わずに木箱を差し出してきた。ハンネスは黙したまま、それを抱きかかえて、教会の中へと運んでいった。ずしりと腰にまで届く重さをしていた。
三往復を要した。ジェイコブが黙って伝票を突き出してくる。ハンネスは木箱の蓋を開けて、チェックを行っている。傷の消毒薬や、鎮痛剤、気付け薬など、内容は種々多岐にわたっていた。
しかし、ハンネスの手は途中で止まった。数が多かったからだ。
「ジェイコブ様。アピエンとホスピンの数が間違っております」
幌の中で横になっているジェイコブに声をかける。手にはリディアの記した発注書の控えを持って、伝票とともに突きだす。
「いえ、それでいいんだ」
伝票を受け取りもせずに、ジェイコブの返事があった。
「むしろ、その二つは足りなくなるぐらい使ってもらわないと困る」
「――それは」
「これ以上は、教司と聖堂に係ることだ。守護士の、それも見習いが口をはさむな」
鋭い声が響いた。咄嗟にハンネスは背を反らせていた。ジェイコブの細いキツネ目の奥が怜悧に刺してくるようだった。
「リディアにも伝えておいてくれ。アピエンとホスピンだろう。なに、どこでも使われている鎮痛剤と気付け薬ではないか」
「それは、そうですね」
ハンネスも利用したことがある。ロシュの軍の訓練中にも、ホズベリーに居た頃にも。教会で処方されていた。
「ランベール教司の頃から、ここは出の鈍さがあったが、リディアは渋りが酷いのではないのか」
「いえ、ただ、まだあまり薬の処方を頼む者が少ないだけなのかもしれません」
雪深い冬の最中では、そもそも教会を訪ねる者が少なかった。ハンネスは訪問者の顔を思い出しながら、ジェイコブに伝えた。
「そうか。しかし何も、やたらめったら処方で出せとは大聖堂も言っていない。用法容量は正しく、出すようにと文書が出されたに過ぎない」
「申し訳ありません」
急ぎ声を上げて、謝を伝える。これでジェイコブのねちっとした言葉も止まった。
「アピエンとホスピン。確かに、拝受いたしました。他も数通りとなります」
「そうか。それはよかった」
むくりと身体を起こして、ジェイコブが言った。だらしない身体を掻きまわしながら、立ち上がり、馬へと寄っていく。
「ほかに用事はあるか?」
「薬の発注書を確認してまいります。他には――」
「それらは、ロシュから送ればいい。急ぎの場合は電報もある。急ぐから、そうするようリディア君に伝えておいてくれ」
一方的にそういい放ち、ジェイコブは手元の鞭を取って、馬を打った。嘶きが響き、馬が歩みだした。
「これからどちらへ」
睨みが返ってきた。ハンネスは臆せずにジェイコブの細いキツネ目を見つめ続けた。
「ロシュの教会へ戻る。寝床はそこだからな」
ため息とともに、彼はそう返した。ゆうゆうと馬車は進んで行く。大量の薬品を積んでいる手前、走ることは厳禁なのだろう。ハンネスは、幌が見えなくなるまで見送った。風に冷たさが帯びているようだった。
教会に戻り、ハンネスは届けられた薬品を製薬室へと運び込んでいった。地下の薬品庫前まで持っていくべきかと逡巡したが、リディアにジェイコブから届けられた薬品の内容を確認させることを優先させた。
礼拝堂に戻る。ステンドグラスが煌めいている。橙色の光がハンネスの足元を射すよう。ステンドグラスが描かれているの聖典の一節であり、苦行の果てに聖者が一杯の粥に救いをみたとの逸話となる。粥の注がれた木椀を頭上に掲げて、顔を伏せる聖者の姿が描かれていると、ハンネスはクレアから聞いている。
夕鍾を鳴らすため、楼へと昇っていく。まだ空は赤かった。淡く滲むような夕焼けだった。ハンネスはそこに春を覚えた。
リディアとクレアが戻ってくる様子はない。耳をすませば時折、馬の駆け音が聞こえてきた。砦と村とで往来があるのだろう。しかしながら、消毒薬や包帯が足りなくなったとして、教会に駆け込んでくるような雰囲気もなかった。
鐘楼にのぼりたち、赤い西の空を眺め見やる。大きく息を吹いてから、舌より下がる縄に手をかけて、鐘を鳴らした。
高らかな音が鳴った。ハンネスの身体が揺れ震えるほどの響きがあった。ハンネスは表情をむっつりと閉じたまま、変えることはない。もう慣れた仕事である。
ただ、赤くなった稜線を眺めて、――綺麗だ、とまた一つため息を吐いていた。
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