5-2 -リディア-
ここにきてようやくリディアの視点。できるだけフラットを試みながらも、カーライルに対して斜に構えている、そんな彼女の視線を目指しました。
遥か遠くに聳え並ぶ峻嶮なる山々の頂には白い雪の冠が残ったままである。しかし、ベルグラーヴの小丘の周りにはひとひらの雪もなく、溶けきっていた。
リディアはすでに鋤鍬を担いで教会の裏庭を耕していた。黒い修道服の中着を一枚減らして、作業を進めていく。
花壇と薬草園を設けるためである。畝を築き、種や苗木をさしていた。督郵に頼んだ種もあるが、ベルグラーヴのトーマスに採取を依頼した苗木も植えていた。
水やりや雑草取りにはハンネスとクレアも手伝った。リディアが助けを求める前から、二人とも屈みこんで、草むしりをおこない、井戸より水を汲んで、適当に水遣りをおこなっていた。
「ありがとうございます」
二人にそう告げるも、職務ですのでと、どこか素っ気ない返事があるばかりであった。それでもクレアには、同性だからか、目をあわせればなんとなく意図を感じられた。柔らかく微笑み、苦を和らげてもらえる心地があった。
長い赤毛を後頭部で結わえてまとめ上げる。目はパッチリと開き、真っすぐに通った鼻筋。表情もはっきりとしていて屈託がない。クレアの側にいて心安くあった。
一方のハンネスは、表情を変えない。尖りを帯びた眼差しにむっつりと閉じた唇で構えて崩さない。鍛えられた身体は鎧のようであり、話しかける隙を見せないように、リディアには感じられた。
一度だけ、ハンネスとクレアの組み合いを見たことがある。けしかけたのはクレアの方であった。――あなたの実力がみたい、と言っていた。単純な好奇心からの言葉であるようにリディアは受け取り、止めなかった。
勝負は一瞬で決まった。クレアの突き出した拳を、ハンネスは腕で払うとともに絡みつくようにして、掴み捩じり上げた。そして腕を極めたまま大きく踏み込んでクレアの懐に入り込む。――参った。クレアはそう言った。ハンネスの空き手は、硬い握り拳を作って、いまにも発動せんと腰落として構えていた。しばらく二人は膠着していた。ハンネスが息を整えるためたっだとは、リディアは後で判った。
――何もできなかった。
歯切りをしながらクレアは言っていた。ハンネスからの感想はまだ聞いていない。ただ、組手の直後の息合いはハンネスの方が粗かったのを、リディアは覚えている。
ベルグラーヴの教会に入ってから三カ月近くが経った。ハンネスとはシノン修道院の道中であるロシュの教会で出会った。しかしながら、今までロクに会話を交わしていないようにリディアは振り返る。
静けさには慣れている。修道院では静寂を常に求められていた。心臓の鼓動すら聞こえてきそうなほど、修道院の生活は音がなかった。その生活に苦はなかった。しかし、ハンネスの沈黙には棘を感じた。生活の中で、胸に刺さる折り、リディアは感じていた。ユーリがエンフィールドをスカウトし、ロシュで訓練を受けて、リディアの前に現れた。青さまで感じられる薄い肌の色。背丈や肉つきは、むしろ隣に立っていたユーリの方が恵まれているようであったが、眼光の鋭さは刃を想起させた。
ハンネスが守護士見習いとして着くことについては修道院で告げられていた。
――エンフィールド側の監視員よ。
クレアはそう言い放ち、自分一人で十分であると剥れていた。リディアは「はぁ」との生返事だけをしていた。自身の預かり知らぬところで、今後の歩む道が決められている。その意識が常に頭の片隅にあった。反抗できるわけもなく、リディアは提出された自身の未来に従っていった。
そうして、すべてが慌ただしく決められていっていた。その激流に飲み込まれて、追いつくこともできなかった。教司への試験にしても、ベルグラーヴの教会への就任についても、サインをした事実だけで、すべてが動いていた。サインをした際の自分の意志は、果たしてどうだったのか、顧みても判らなかった。
――兄が居た場所。兄が殺された場所。
ベルグラーヴについて知っていることは、それだけだった。そこへ行く機会が得られる。サインした理由はそれだけだったように思えていた。
兄の死については、書面上でしか確認していない。殺されたとまでは知っているのだが、なぜ殺されたのかについては定かにされていない。ユーリに尋ねても首を振って応えるのみである。――今、調査をしている。一年以上が経って尚、不明とされていた。
ベルグラーヴに到着した際に、ランベール教司と並んで設けられていた墓標の前に立ち、手も合わせている。涙は一滴も出てこなかった。自分は何に対して手を合わせるのかも判らなかった。
知らせを聞いたのは修道院である。一カ月以上前に亡くなっていた。亡骸は確認していない。すべて文書であり、文字の上での確認だった。
ジャン・ノートとは八年近く顔を見合わせていない。ジャンがドライゼの警邏隊に入隊してからの後を全く知らない。丸太のように腕が太く、巌のような身体つきだったと耳にはしているのだが、手足が細くすらりを長い身体つきであったと、リディアは記憶している。まったく想像がつかない。当然、ジャンは
リディアの伸びた背も膨らんだ胸も観ていない。墓標に刻まれている文字は、自分の兄の名前を指している。見つめても見つめても、心の内には乾いた風ばかりが吹いてくる。
「リディア様、おはようございます」
「えぇ、おはようございます」
丸顔の婦人がリディアに近寄ってきた。教会の手伝いをしているナタリアだった。溌溂とした声には、表情のこわばりを解かしてくれるようであった。
「それでは、お湯を沸かしていただけますか」
「お掃除ですね。畏まりました」
「いえ、道具の消毒に使うので」
「お掃除の道具、ですよね」
「製薬、です」
合点がいったのか、ナタリアは目を丸く広げながらも、大仰なほど首を縦にゆっくりと頷かせた。
昨日、ようやく督郵が教会を訪れた。そして、大聖堂からの月例の報告書とともに、依頼していた薬草などが届けられた。乾燥した草木の葉や根、アルコールの入った瓶、軟膏が詰められた瓶。これで薬を処方の準備が整う。
月例報告書の中に取り立てて、留意すべき記載はなかった。エンフィールドのベルグラーヴにリディアが赴任したことが、小さく書かれている。その他には、水銀や催吐剤を用いた薬の処方の危険性や瀉血の注意点、ホスコの果実から生成されるホスピン粉末剤の有効性について記されている。おおむね流し読みで判る範囲である。
教会の地下に設けられた貯蔵庫には、備蓄としてそれなりに用意されてはいた。風邪薬や熱さまし、気付け薬に鎮痛用の軟膏薬。常用のものばかりであり、ここから村の特性に合わせて、対応していかなければならない。
さらにフラッグのような場合もある。薬がきれそうなのでと処方を願いに教会に訪れたのが一週間前ほどにあたる。心身の安定剤としてロシュの教会で処方されていた薬があった。しかしながら、備蓄として該当の薬はなかった。アピエン錠剤の製薬方法については、リディアも知りえず、大聖堂に取り寄せるしかなかった。
――仕方ありません、とフラッグは肩を落として辞していった。次までに取り寄せるのが、教司としての責務であるとして、ハンネスをロシュに向かわせて、ロシュの教会で分けてもらうことと、電報を飛ばしていた。
取り寄せにかかる時間を鑑みて、自身で調合、製薬できるものは自身で用意する。それも勤めの一つである。
幸いなことに、ベルグラーヴの民の診療にしても、複雑な患いの者はいなかった。風邪熱や栄養のバランスを崩しての体調不良が殆どである。備蓄している薬や食事療法で間に合わせていった。
無論、死への看取りもあった。しかしながら、教司に今わの際を診ていただいたとして、恨み言の類は一切なかった。
その上、カーライル家からの依頼もある。
フェリル・カーライルの尊大な態度に、心内がささくれだったのは間違いない。しかしながら、表情として出すことは抑えて、穏便に済ませようと心掛けた。彼女はベルグラーヴの領主であり、自身は教会の教司である。長い付き合いになるのは、考えるより先に判っていた。
――なんですか、その態度は。
クレアが許さなかった。腕を組み椅子に腰かけるフェリルに見下ろすように相対して、真正面から言葉を放った。フェリルは目を丸くしてクレアを見上げた。後ろに控えていた従者のルシアナは苦そうに顔に皺を寄せていた。
――いや、挨拶を。
――それが領主の礼ですか。恥を知りなさい。
クレアが毅然と言い放った。フェリルは束の間、瞳を閉じた。非礼を詫びているのか、それにしては、不遜な雰囲気を帯びていた。フェリルはむしろこの瞬間に、組んでいて手に力を込めていた。
――そうか。そうだな。悪かった。
しかし、目を鋭く細く開いていた。
――このことに対して謝罪をしよう。申し訳なかった。
悠然と立ち上がり、深く頭を下げた。ルシアナもフェリルに合わせるように、姿勢を正してから頭を下げる。声音は背筋が伸びるような冷たさを帯びていた。
――出直してくる。ルシアナ、帰るぞ。
門扉の前で軽い一礼だけして、フェリルは去っていった。付き添いのルシアナは深く頭を下げていた。そして、主人を追うようにして教会の外へと出ていった。
以後、彼女たちは教会に来ていない。村の中を歩いていても、出くわすことはなかった。ヴァロワ家やルベツキ家などへの挨拶と、忙しなく動くとともに、森の中にある砦の補修作業の確認など、彼女らも精力的に活動していると聞いている。
この一件より、クレアはカーライル家を毛嫌いしている。ハンネスが守護士見習いとして、自身の下につくことが決定した瞬間から、そもそもエンフィールドに対して、疑念を抱いているような節をリディアは感じていた。ユーリに対しても牽制を緩めず、ハンネスをリディアに近づけることをできる限り拒む。
――向こうから動きがない限り、こちらがわざわざ出向く必要はないでしょう。
クレアはそう言って出方をうかがっての傍観を決め込む。ハンネスに意見を伺おうと試みるも、我関せずと、明後日の方へと視線を向けていた。
青い瞳の少女がメモを片手に現れた。フェリルの指示に従い、薬のリストを持ってきたと告げた。クレアがやや乱暴にメモを受け取り、リディアに渡す。視線を送って、態度や言葉遣いに注意を促す。
依頼を受けた以上は返さなければならない。しかしながら、リストに記載されている薬のほとんどが用意できなかった。
――屋敷には大勢が勤めているのでしょう。その薬箱の補充程度にはなりますが。
取り敢えずと、エレーナと名乗った少女に用意できる限りの薬をまとめて渡した。彼女は口調も表情も
はっきりとしていた。淡々としながらも、丁寧な応対であり、クレアとのやり取りもつつがなく済んだ。
――よろしいのですか?
そうクレアは尋ねてきたが、リディアは頷いて返した。
――それに招待の文字もありますし、近々お伺いいたしましょう。
「アピエンとホスピンがまだですけど、準備ができたら、お伺いしましょうか」
「すべてが揃ってからでも、いいではないでしょうか」
乾燥した木の根をすり下ろしながら、クレアは応える。リディアはテーブルに並べられた小瓶や小壺にラベリングを済ませると、沸騰した湯の中に入れていた鉄製の薬さじを取り出して、一本一本を丁寧に拭いていく。
「いつまでも、ギスギスしたままなのは、村にとっても良くありませんから」
ナタリアには玄関周りの清掃をお願いして、リディアはクレアに製薬や備品の片付けを頼んだ。教会の中へと入り、半地下の調合室へと入る。先日、督郵から受け取った品はまだ、テーブルの上に置いたままにしてあった。
ハンネスの様子をみると、雑草取りがひと段落着いたようであり、教会の外での見回りとともに、型の独り稽古をしているようだった。
「反省すべきは、フェリル・カーライル様ではありませんか。こちらからわざわざ――」
「そのフェリル様に用事がありますから」
リストに記載されていた薬の品目が気になった。気付け薬に眠気覚まし、向精神作用のある薬が列挙されていた。それも一瓶単位での注文である。教会で処方をおこなっているのだが、診察と相談を受けてからの、必要最低限を処方するのが常である。
「一度、しっかりと診断する必要があると思いまして」
「診察でしたか」
「ええ。それに傷薬や軟膏薬とは違って、服用薬は、そう簡単に処方するものではないですから」
兄の死を知るとともに、兄が守護士として仕えていた教司の名前も知った。ランベール・ウィルソン。名前を知るとともに、リディアはシノン修道院の図書室で、彼の記した書物がないか探したことがある。
たった一冊だけではあるが、薬草学の論文として発見した。ドクダミやアロエといった一般的な薬草から、カモミールやラベンダーの香りからの効能について。そして、エンフィールドよりも西方にある大陸で見つかったコカの木、コカの葉の効果とその危険性について。具体的な症例を交えながらの論文であった。リディアは自身の兄が殺されたことも忘れて、その論文を読んでいた。
「ベルグラーヴをより良くするため。そのために私たちは居るのでしょう?」
――フェリルに必要な薬はリストに記載されていない。
そんな確信をリディアは抱いていた。
お読みいただき、誠にありがとうございます。
ゆっくりとではありますが終盤に向けてのタネは仕掛けております。
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