第九話 足りないもの
その日、僕が受けた依頼は、街道周辺のゴブリン討伐と安全確認だった。最近、街道沿いでゴブリンの目撃情報が増えているらしい。
商人や旅人が安心して通れるよう、数を減らしつつ、周辺に危険がないか確かめてほしい――依頼票には、そう書かれていた。単純な討伐依頼だと思った。
ここ最近、コボルトの群れも危なげなく片付けられるようになっている。ゴブリン相手なら、そう苦労はしないはずだった。
「このくらいなら、一人で大丈夫だろう」
そう呟いて、僕は街道を歩き始めた。街道脇の茂み、その奥で何かが動いた。
「……いた」
緑色の小さな身体。
ゴブリンだ。
僕は足を止め、相手の動きを観察する。以前の僕なら、魔物を見つけただけで身体に力を込めていただろう。
でも、今は違う。必要な分だけ。必要な場所へ。右手へ意識を集中させる。黒い霧が、指先から薄く広がった。
ゴブリンが棍棒を振り上げる。僕は一歩横へずれ、その攻撃をかわした。
そして――右手を振り抜く。
ゴブリンの身体が吹き飛び、そのまま地面へ倒れた。
「……一体」
思ったよりも、あっさりしていた。僕は周囲を見回す。依頼票には、複数の目撃情報があると書かれていた。
「まだいるはずだ」
そのときだった。少し離れた木立の向こうに、緑色の影が見えた。
「……もう一匹」
影は、こちらに気づいたのか、森の中へ走っていく。
「待て!」
僕は反射的に、その後を追った。
*
一体を仕留める。また少し先に別の影を見つける。それを追う。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、気づけば木々の密度が変わっていた。
「……あれ?」
僕は足を止め周囲を見回す。見覚えのある景色が、どこにもない。街道沿いに生えていたはずの大きな木も。目印にしていた岩も。どちらも見当たらなくなっていた。
「……戻らないと」
来た方向だと思う道を、引き返してみるけれど、しばらく歩いても、街道は見えてこない。
木々はどこまでも似た景色を作り、進んでも進んでも、同じ場所を歩いているような感覚に陥る。
「……」
足を止め左右を見る。どちらにも、見覚えのあるものはない。
「……嘘だろ」
喉の奥が渇いていく。胸の中に、じわりと焦りが広がった。
――迷った。
その事実を認めた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。焦って歩き回れば、余計に帰れなくなる。僕は周囲を見渡した。
木の幹。地面。太陽の位置。風の向き。
屋敷にいた頃、ほんの少しだけ教えられた知識を思い出す。あの頃は、そんなものが何の役に立つのかなんて考えたこともなかった。
でも今は――
「……確か、太陽の位置から方角をある程度判断できる」
うろ覚えの知識を必死に掘り起こす。完全に正しい自信はない。それでも、何もしないよりはいい。僕は慎重に歩き始めた。さっきまでとは違う。
今度は、進む方向だけを見るのではなく、周囲の景色を一つずつ確認しながら進んでいく。
木の形。地面の傾斜。光の差し込む方向。少しでも記憶に残るものを探す。
*
どれくらい歩いただろうか。空が少しずつ赤く染まり始めていた。
「……もう、こんな時間」
夕暮れが近づいている。このまま森の中で夜を迎えるのは危険だ。焦りを抑えながら歩き続けていると――木々の隙間から、見覚えのある景色が見えた。
「……あった」
街道だ。僕は足を止め、その場で大きく息を吐いた。
「……よかった」
街道へ出る。見慣れた道。遠くを歩く人の姿。それを見た瞬間、全身から力が抜けそうになった。
街へ戻る足取りは重かった。討伐自体は成功しているけれど、胸の中には、拭えない違和感が残っていた。
*
ギルドへ戻った頃には、すっかり日が落ちていた。
僕は受付カウンターへ向かい、依頼票と討伐証明を提出する。
受付嬢が討伐証明の数を確認し、依頼票の記録と照らし合わせていく。
「討伐数は問題ありませんね。お疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
そう言いかけたところで、受付嬢がふと手を止めた。
「ノクトさん」
「はい」
「帰還予定時刻を、かなり過ぎていますが」
「……すみません。少し、迷ってしまって」
正直に答える。受付嬢は書類から顔を上げ、僕をまっすぐ見た。
「魔物を倒せたこと自体は、問題ではありません」
「……はい」
「ただ、今回の依頼には『討伐』だけでなく、『街道周辺の安全確認』も含まれていました」
受付嬢は依頼票へ視線を落とす。
「予定していた範囲を大きく外れてしまえば、確認すべき区域が確認できていない、ということになります」
「…………」
言われて、初めて気づいた。僕は、目の前に現れた魔物を倒すことにしか意識が向いていなかった。
依頼に書かれていた本当の目的を、きちんと考えていなかったのだ。
「……申し訳ありません」
「一人で行動するなら、戦う力だけではなく、周囲を見る力も必要です」
受付嬢の声は、いつも通り淡々としていた。
責めるでもない。突き放すでもない。
ただ、必要なことを事実として伝えている。それが、かえって胸に刺さった。
「地図の読み方や、森での目印の付け方は、初心者向けの講習でも教えていますよ」
受付嬢が続ける。
「よければ、受けてみてください」
「……はい」
一瞬だけ迷った。けれど、すぐに頷く。
「お願いします」
「分かりました。次回、時間を確認しておきますね」
「ありがとうございます」
受付嬢は小さく頷き、再び書類へ視線を落とした。
*
ギルドを出る。夜の街を、一人で歩く。僕は胸元の木製プレートに、そっと触れた。
そこには――ノクト。ただ、それだけが刻まれている。
「……強くなるだけじゃ、駄目なんだ」
小さく呟いた。闇の力を制御できるようになってきた。魔物とも戦えるようになった。それは、確かに一つの成長だ。
でも、それだけでは足りない。魔物のこと。森のこと。地図の読み方。依頼の意図を正しく理解すること。自分が今、どこにいるのかを把握すること。
考えてみれば、僕は何も知らなかった。屋敷にいた頃の僕は、剣も魔法も、戦い方すら知らなかった。
今は、力を持っている。でも、力を持っているだけでは、この世界で生きていくことはできない。
「もっと、知らないと」
夜空を見上げる。星が、静かに瞬いていた。焦る必要はない。今日の失敗も、いつか力に変えればいい。失敗したなら、次は同じことをしなければいい。
知らないなら、知ればいい。そして、また明日、依頼を受ける。
「……一つずつ、覚えていこう」
そう呟いて、僕は宿への道を歩き続けた。




