第十話 学ぶということ
翌日、ギルドの一角にある小さな講習室へ向かった。
受付嬢が用意してくれた、初心者向けの講習。地図の読み方。森での目印の付け方。簡単な野営の知識。そして、依頼中に注意すべきこと。
昨日の失敗を思い出しながら、僕は扉を開けた。部屋には、すでに数人の新人冒険者たちが席についていた。僕と同じくらいの年齢か少し年上だろうか。
彼らは互いに軽く言葉を交わしながら、講習が始まるのを待っている。僕が部屋へ入った瞬間。何人かの視線が、一斉にこちらへ向いた。
「……」
一瞬の沈黙。それから、誰かが小さく耳打ちする声が聞こえた。
「あれが……」
「……災厄、だろ」
聞こえないふりをして、僕は一番後ろの席へ向かった。誰かと目が合うことはなかった
――慣れている。
そのはずだった。それでも、胸の奥がわずかに軋む。屋敷にいた頃も、同じだった。
視線を向けられれば、そこには嫌悪があった。声をかければ、拒絶された。
けれど――今は違う。
ここにいる人たちは、僕のことを何も知らない。ただ、「災厄」という噂を聞いて、距離を取っているだけだ。
それだけのこと。そう思えば、少しだけ気持ちを落ち着けることができた。
*
しばらくして、講師が入ってきた。中年の男性だった。長年、冒険者として活動してきたのだろう。身体にはいくつもの古い傷が残っている。
「今日は初心者向けの講習だ。難しいことはしない」
講師は受講者を見回した。
「だが、一つだけ覚えて帰ってほしい」
黒板に、一本の線を引く。
「冒険者は、魔物を倒すだけが仕事じゃない」
その言葉に、僕の手が止まった。
「依頼には必ず目的がある。討伐なら討伐。護衛なら護衛。採取なら採取だ」
講師は淡々と説明を続ける。
「目的を忘れて魔物を追いかけたり、予定された範囲を勝手に離れたりすれば、それだけで失敗になる」
「……」
まるで、昨日の僕のことを言われているようだった。
「強さだけで生き残れるほど、冒険者の仕事は甘くない」
胸に、その言葉が残った。続いて、森で迷わないための方法が説明される。
「太陽の位置。風向き。地形。木々の形。目印になる岩や川」
講師は黒板へ簡単な森の図を描いていく。
「一つだけを信じるな。複数の情報を使って、自分の位置を確認しろ」
僕は必死に書き留めた。昨日の失敗を、無駄にしたくなかった。
「そして、森へ入る前に帰還予定時刻を決めておけ」
講師が言う。
「予定を過ぎたら、依頼を続けるんじゃない。戻る判断をしろ」
僕は小さく頷いた。
――昨日、僕に足りなかったものだ。
*
講習の後半。
「じゃあ、実際に地図を作ってみろ」
講師が簡単な地図を配る。
「二人一組で――」
その言葉と同時に、周囲の受講者たちが動き始めた。
「一緒にやろう」
「ああ」
自然と組ができていく。僕の周囲だけが、静かに空いていった。
「……一人でやります」
小さく申し出る。講師は特に気に留める様子もなく頷いた。
「構わない。一人でも、やることは同じだ」
「はい」
僕は一人で地図へ向き合った。周りからは、組んだ相手同士の小さな会話や笑い声が聞こえてくる。
けれど、僕は気にしないようにした。地図を見る。分かれ道。大きな岩。川。森の入口。
一つずつ確認しながら、紙へ書き込んでいく。――知識が増えていく。
それだけで、少しだけ安心できた。
*
講習が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「お疲れ」
「また明日な」
「今度、一緒に依頼受けようぜ」
新人たちは連れ立って、講習室を出ていく僕は少し遅れて、一人で部屋を出た。誰かと言葉を交わすこともなく、宿への道を歩く。
寂しくないと言えば、嘘になる。でも、この孤独には、以前とは少し違う質感があった。
屋敷での孤独は――
拒絶され、否定される痛みだった。
今の孤独は――
ただ、まだ誰にも近づけていないだけ。静かな距離だった。
「……いつか」
誰かと普通に話せる日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、僕は夜道を歩いた。
*
数日後。
僕は森の奥にある薬草の群生地を訪ねる依頼を受けた。街道からかなり離れた場所だ。以前の僕なら、少し不安になっていただろう。
でも、今日は違った。森へ入る前。僕は懐から小さな紙とペンを取り出した。
「……ここから入って」
周囲を見渡す。
「大きな木が一つ。そこから少し進むと岩」
簡単な地図へ、目印を書き込んでいく。太陽の位置も確認する。進むたびに、今いる場所を意識する。
――昨日までの僕なら、こんなことはしていなかった。
ただ目的地へ向かって歩いていただろう。薬草の群生地へ到着する。
「……あった」
必要な薬草を確認し、丁寧に採取していく。
その途中に少し離れた場所で、何かが動いた。
「……魔物?」
目を凝らす。小型のゴブリンだった。こちらに気づいたゴブリンが、森の奥へ走っていく。
「……」
反射的に、一歩踏み出しかけた。
――追う。
そう思った瞬間。昨日の失敗が頭をよぎった。森の中。見失った道。夕暮れ。街道へ戻れなくなった恐怖。
「……いや」
僕は足を止めた。
「今回の依頼は、薬草の採取だ」
ゴブリンを倒すことじゃない。僕は周囲を見渡した。今いる場所。帰る方向。予定している時間。
「……追わなくていい」
ゴブリンの姿は、すでに木々の向こうへ消えていた。僕はそのまま採取を続けた。
依頼を終えたあと。来た道を、地図を確認しながら戻る。何度か立ち止まり、目印を確認する。
*
森を抜ける。目の前に街道が現れた。
「……戻れた」
思わず、小さく笑った。昨日までなら、魔物を追っていた。今日は追わなかった。
昨日は、森で迷った。今日は、迷わず戻ってこられた。ほんの小さな違い。けれど、僕にとっては、大きな違いだった。
「……ちゃんと、覚えてる」
講習で教わったこと。昨日の失敗。その全部が、少しずつ自分の中に積み重なっている。力だけでは、駄目だった。
知らないなら、知ればいい。できないなら、覚えればいい。失敗したなら、次に活かせばいい。
僕は胸元の木製プレートへ、そっと触れた。
「……次は、何を覚えよう」
夕暮れの街道を、僕はゆっくりと歩き始めた。その足取りは、数日前よりほんの少しだけ軽かった。




