第六話 ギルド
城門をくぐると、そこはまるで別の世界だった。石畳の通りにはいくつもの露店が並んでいる。
焼き立てのパンの匂い。香辛料の匂い。誰かが大声で客を呼び込む声。荷馬車が石畳を踏み鳴らし、子供たちが笑いながら路地を駆けていく。
人がいる。こんなにも、たくさんの人が。
屋敷の中では、こんな音を聞いたことがなかった。静かで、冷たくて。誰かの気配を感じてもそれは僕を避けるために近づいてくる足音ばかりだった。
僕はしばらく、その光景に立ち尽くしていた。誰も僕を見ない。誰も僕を避けない。ただの通行人として、人混みに紛れることができる。それだけのことが、ひどく新鮮だった。
けれど、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。鞄の中の路銀はもう心もとない。まずは冒険者ギルドへ向かい、正式に登録を済ませなければならない。使用人たちの噂話で聞いた場所を頼りに僕は大通りを歩き始めた。
*
大通りから一本外れた細い路地に差し掛かったときだった。
――ドンッ。
鈍い音と共に、女性の小さな悲鳴が聞こえた。
「……?」
僕は思わず足を止める。路地の奥。薄暗い建物の隙間で数人の男たちが誰かを取り囲んでいた。
「大人しくしろ。手荒な真似はしたくない」
男の一人が、低い声で言う。革鎧。腰には剣。男たちは皆、似たような装備を身につけていた。冒険者だろうか。それにしては、装備が妙に整いすぎている。胸元には、僕の知らない小さな紋章まで刻まれていた。
「……離してよ」
男たちの中心にいたのは、一人の少女だった。僕と同じか、少し年下くらいだろう。壁に背を押し付けられ、逃げ場を失っている。けれど、その目にはまだ強い光が残っていた。
「お前には、まだ使い道がある」
リーダー格らしい男が、少女を見下ろす。
「大人しく来れば、悪いようにはしない」
「嫌よ!」
少女が睨み返す。
「そうか」
男がため息を吐いた。
「なら、少し眠っててもらうか」
男の手が少女へ伸びる。
――関わるな。
頭のどこかでそんな声がした。自分には関係のないことだ。ここで下手に動けばまた面倒に巻き込まれる。せっかく誰も僕を知らない場所に来られたのに。
それでも。脳裏にあの夕暮れの交差点が蘇った。誰も動けなかった中で勝手に身体が走り出したあの瞬間。
――誰か、助けて。
あの子の目が、目の前の少女と重なった。
「……っ!」
気づけば、僕は物陰から飛び出していた。
「その子から、離れてください!」
自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。男たちが一斉にこちらを見る。
「……ガキが、何の用だ」
リーダー格の男が、僕を睨みつける。
「関係ない奴は引っ込んでろ!」
「その人は、嫌がっています!」
僕はナイフの柄に手をかけた。震えているのが自分でも分かる。
「一人で、俺たち相手に何ができる?」
「面倒だ。2人まとめて片付けろ」
一人の男が、僕へ向かって踏み込んでくる。
――怖い。
足が竦みそうになる。それでも、僕は右手を握った。あの狼と戦ったときの感覚を必死に手繰り寄せる。
「……っ」
黒い靄が指先にわだかまった。まだ、完全には制御できない。もし力が暴走したら。目の前の少女まで巻き込んでしまったら。
そう考えた瞬間、黒い靄が大きく揺らいだ。
「くっ……!」
怖い。けれど――このまま見捨てるのも、怖かった。
「これでも、喰らえ!」
僕は闇を放った。狙いは男の足元。傷つけるためではない。ただ、怯ませるため。黒い靄が地面で弾け、土煙が舞い上がった。
「な、なんだ……!?」
男たちが一瞬怯む。その隙を逃さなかった。
「こっちへ!」
僕は少女の腕を掴んだ。
「――っ、え……!?」
「走って!」
戸惑う少女を引いて、路地の反対側へ駆け出す。
「くそっ!逃げるな!」
「追え!」
背後から怒声が響く。僕は必死に走った。足音が近づいてくる。怖い。それでも、手を離さなかった。
やがて路地を抜け人通りの多い大通りへ飛び出す。周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。それを見た瞬間、追ってきた男たちの足音が止まった。
「……ちっ」
遠くから舌打ちが聞こえる。人目のある場所で騒ぎを起こすのは避けたいらしい。男たちはしばらくこちらを睨んでいたが、やがて路地の奥へと姿を消した。
*
しばらく走ったところで僕たちは路地の陰に身を隠した。
息が苦しい。胸が激しく上下している。
「……大丈夫……ですか?」
僕が尋ねると、少女は何も言わず僕を見つめていた。助けられたことへの戸惑い。そして、まだ完全には拭えない警戒。そんな感情が入り混じった表情だった。
「……あなた」
「はい」
「さっきの力……」
「……」
少女の視線が、僕の右手に向いた。さっき放った黒い靄。見られていた。身体が強張る。また、あの目で見られるのか。恐怖。嫌悪。拒絶。そう思った。
「すごい力……」
「……え?」
返ってきた言葉に、僕は目を瞬かせた。少女は怯えていなかった。むしろ、不思議そうに僕の手を見ている。
「怖く……ないんですか?」
「え?」
「その、黒い力……」
少女は少しだけ首を傾げた。そして――
「別に」
小さく笑った。
「助けてくれたんだから、いい人でしょ」
「……」
言葉が出なかった。あまりにも自然な言葉だった。僕の力を見て、それでも僕自身を見てくれている。そんな人は初めてだった。
「……あの人たちは」
気を取り直して尋ねる。少女の表情が、わずかに曇った。
「……言えない」
「でも――」
「助けてくれたことは感謝してる」
少女は僕を真っ直ぐ見つめた。
「でも、これ以上は巻き込めない」
「……」
「あなたも、早くここを離れた方がいい」
その言葉には妙な重さがあった。まるで、あの男たちが追っているのは少女だけではないような。そんな気がした。
「名前、聞いてもいい?」
少女が尋ねる。
「……」
名乗るべきか迷った。けれど――
「ううん」
少女は自分から首を振った。
「聞かない方がお互いのためかもね」
「……そうですか」
少女は一歩下がる。そして、頭を小さく下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
顔を上げた少女は、少しだけ笑った。
「……この借りはいつか返す」
そう言い残すと少女は人混みの中へ紛れるように走り去っていった。
「……」
名前も。事情も。何も分からない。それでも、確かなことが一つあった。
あの子は僕の力を見ても怖がらなかった。
――僕を、僕として見てくれた。
その事実だけが、胸の奥に残った。
*
気を取り直して僕は再び歩き始めた。
目指すのは冒険者ギルド。しばらく歩くと、石造りの大きな建物が見えてきた。剣と盾を象った看板が掲げられている。
扉を開けた瞬間、酒場のような喧騒が耳に飛び込んできた。昼間から酒を飲む冒険者。依頼票を眺める者。武器の手入れをする者。笑い声。怒鳴り声。食器の音。その全てが、僕には新鮮だった。誰も僕には目もくれない。それが、少しだけ心地よかった。
僕は受付カウンターへ向かった。
「登録をお願いします」
カウンターの奥にいた受付嬢が顔を上げる。
「はい。初めてですね。それでは、こちらの用紙に――」
言いながら、彼女は用紙とペンを差し出した。名前を書く欄がある。僕は少し迷ってから、ペンを取った。
「ノクト」
それだけを書いた。姓は書かなかった。もう、ヴェルステットの名を名乗るつもりはない。
「ノクトさんですね」
「はい」
簡単な質問に答えていく。出身地。年齢。得意な武器。魔法の系統。
「魔法は、何属性を?」
「……闇属性、だと思います」
「闇属性ですか。珍しいですね」
受付嬢はそう言いながら、一枚の水晶を取り出した。
「簡易鑑定を行いますね。手をこちらに」
「はい」
僕は水晶に手をかざした。淡い光が走る。水晶の内部に、いくつかの文字が浮かび上がった。受付嬢が、それを確認する。
「……」
表情が固まった。
「……え?」
その声に、僕は嫌な予感を覚えた。
「これは……」
「……災厄、です」
僕は先に、その名を口にした。もう、隠しても仕方がない。
「……災厄?」
受付嬢が呟く。その声に反応して、近くにいた冒険者がこちらを振り返った。
「災厄って……?」
「あの、災厄のスキルか?」
「そんなもの、本当にあるのかよ……」
ひそひそと囁く声が聞こえてくる。慣れているはずだった。それでも、胸の奥が冷たくなる。
受付嬢は水晶を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……少々、お待ちください」
「はい」
受付嬢は水晶を抱えるようにして、奥へ駆け込んでいった。
しばらくして――奥の扉が開く。
現れたのは、片目に眼帯をした初老の男だった。屈強な体つき。顔や腕には歴戦を思わせる無数の傷跡がある。ただ歩いているだけなのに、周囲の空気が変わった。
「お前が災厄のスキル持ちか」
低く、重い声だった。
「……はい」
「俺はガルド。このギルドのギルド長だ」
ガルドは僕を値踏みするように見つめた。その視線には、恐怖よりも警戒があった。
「災厄というスキルについては、俺も詳しく知らん」
「……」
「だが、一つだけ分かっていることがある」
ガルドの目が細くなる。
「分からない力ほど危険なものはない」
胸の奥がわずかに痛んだ。
「通常の登録なら書類上の確認だけで済む」
ガルドは水晶へ視線を落とす。
「だが、お前の場合は別だ」
「……どうしてですか?」
「どんな力かわからん。そして暴走する可能性があるからだ」
周囲がざわめく。
「暴走って……」
「災厄だもんな……」
そんな声が聞こえる。ガルドは周囲を一瞥した。
「黙れ」
たった一言。それだけで、ギルド内が静まり返った。
「本人を見ずに噂だけで判断するな」
「……」
その言葉に僕は少しだけ驚いた。けれどガルドは僕に優しくするつもりなどないらしい。
「だからこそ俺自身が確認する」
ガルドはギルドの裏手を指差した。
「実際にその力を見せてもらう」
「……分かりました」
ここで拒否すればこの街で生きていく術を失う。僕は頷いた。
*
ギルドの裏手には鍛錬場のような広い空き地があった。周囲を高い壁に囲まれ外からは見えない造りになっている。
「そこの的へ力を放て」
ガルドが、離れた場所に設置された木製の的を指差す。
「全力でいい」
「……全力」
「ああ」
ガルドは腕を組んだ。
「お前がどれだけの力を持っているか。そして――」
一瞬、眼帯の下に隠された左目へ手をやる。
「どこまで制御できるのか。それを見極める」
僕は右手を掲げた。全力。その言葉にわずかな恐怖が過る。今まで僕が使った力はほんの一部だった。もし、本当に全力を出したら。何が起きるのか分からない。
それでも――僕は目を閉じた。あの夜の感覚を、静かに呼び起こす。憎しみ。怒り。そして、生きたいという意志。
――僕は、生きる。
右手に黒い力が集まっていく。今までで、一番大きい。黒い靄が渦を巻き、やがて一つの塊となる。
「……!」
僕は目を開いた。
「行きます」
闇を解き放つ。
――ズドォンッ!!
黒い奔流が空気を切り裂いた。木製の的が、一瞬で粉々になる。そのまま勢いは止まらず、背後の壁へ激突した。
――ドゴォン!
石壁に深い亀裂が走る。
静寂。僕は肩で息をしながらガルドを見た。ガルドは何も言わなかった。しばらく壁の亀裂を見つめている。やがてゆっくりと僕へ視線を戻した。その目にあったのは――驚き。そして、それを上回る警戒だった。
「……制御は、できているようだな」
「はい」
「少なくとも、今はな」
「……」
ガルドは僕の右手を見つめる。
「だが、今日初めて会ったばかりの小僧を俺は信用しない」
「……」
「力があることと信用できることは別だ」
その言葉は、冷たかった。けれど、不思議と嫌ではなかった。家族のように僕自身を否定しているわけではない。ただ、知らないから警戒している。それだけだった。
「……分かっています」
ガルドは少しだけ目を細めた。
「そうか」
そして、踵を返した。
「登録は認める」
「……!」
僕は思わず顔を上げた。
「ただし、問題を起こせばすぐに処分する」
「はい」
「その力が暴走したときも同じだ」
ガルドが振り返る。
「そのときは、俺が直々に止める」
「……分かりました」
「覚えておけ」
それだけ言うと、ガルドは歩き出した。
*
登録を終え、僕はギルドの掲示板の前に立った。
周囲の視線は、依然として冷たい。
「あいつが、あの噂の……」
「関わらない方がいいぞ」
「災厄なんて、何をするか分からない」
力を見たのはガルドと受付嬢。そして、鍛錬場にいた一部の冒険者だけ。多くの人にとって、僕はただ――「災厄」という不吉な名前を持つ、得体の知れない新人だった。
それでも。
僕は掲示板に貼られた依頼票を見つめる。薬草採取。魔物の討伐。護衛。様々な依頼が並んでいる。その中から、一枚の依頼票へ手を伸ばした。
――ここでなら。実力さえあれば。いつか、少しずつでも認めてもらえるかもしれない。
完全に信じてもらえたわけではない。むしろ、まだ疑われている。それでも――ここには、僕を見てくれる人がいる。少なくとも僕の力だけを理由に最初から存在そのものを否定する人ばかりではない。
僕は依頼票を握りしめた。屋敷を出てか初めて自分の意思で選んだ場所。ここから始める。僕の新しい人生を。
――そう思った。
そのとき。ギルドの外。人混みの向こうから、誰かがこちらを見ていることに僕は気づかなかった。
少女が一人。先ほど路地で助けた少女だった。彼女はギルドの看板を見上げたあと、窓越しにノクトの姿を確認する。
「……やっぱりここに来たんだ」
小さく呟く。
その手には、いつの間にか奪い取っていたのだろう、先ほどの男たちが身につけていたものとよく似た小さな紋章が握られていた。それをどうするつもりなのか、彼女自身にもまだ分かっていないようだった。
「……災厄、か」
少女は一瞬だけ、複雑な表情を浮かべる。怖がっていたわけではない。かといって、単純な同情でもない。何かを重ねているような、そんな目だった。
そして、誰にも気づかれないように、その場を去っていった。




