第五話 闇の力
しばらくの間、僕はその場から動けなかった。
灰牙狼の死体。その身体に残る、黒い傷跡。僕の手から放たれた闇が貫いた場所だった。
「……怖い」
思わず、呟いた。魔物が怖かった。死ぬのが怖かった。そして、自分自身が一番怖かった。
あの力が何なのか僕には分からない。もし、あの力が暴走したら。僕は誰かを傷つけてしまうのではないか。父が。兄さんが。姉さんが。僕を恐れた理由が本当に正しかったのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
「……」
僕は拳を握った。
――違う。そうじゃない。僕は何もしていない。僕を「災厄」と呼んだのは、あの人たちだ。この力が本当に危険なものなのか、まだ何も分からない。だったら、自分で確かめればいい。
「……そうだ」
誰かが教えてくれるわけじゃない。父は僕を捨てた。兄さんも、姉さんも、もう僕の手を取ってはくれない。なら、自分で知るしかない。
「……この力が何なのか」
僕はもう一度、右手を見つめた。
*
灰牙狼の死体から少し離れた場所。僕は街道脇にある大きな岩の前へ立っていた。
深呼吸する。そして、右手を前へ出した。
「……」
何も起こらない。少し待つ。それでも何も起こらない。
「……来い!」
何も起こらない。
「……どうやるんだよ」
思わず呟いた。さっきの戦闘ではただ死にたくないと思った。それだけだった。使い方なんて何も考えていない。
僕はもう一度、目を閉じた。あの時を思い出す。灰牙狼。牙。恐怖。死。そして――生きたい!
胸の奥で何かがわずかに揺れた。右手が少しだけ熱くなる。
「……っ!」
目を開く。手のひらの上に黒い靄が小さく浮かんでいた。
「……出た!」
思わず息を止めた。黒い靄は風もないのにゆっくりと揺れている。
さっきは死への恐怖がこの力を暴れさせた。今は、僕の意志で呼び出せている。
「動け!」
何も起こらない。
「……前に」
黒い靄が、わずかに揺れた。僕は思わず息を呑む。
「前へ」
黒い靄がゆっくりと僕の手から離れた。だが、ほんの少し前に進むと、空気に溶けるように消えた。
「消えた……」
僕はしばらく何も言えなかった。でも、少しだけ笑いそうになった。
「……できた」
昨日まで、僕には何もなかった。剣も、魔法も、何も。でも今は僕の手のひらには確かに力がある。
僕はもう一度、闇を呼び出した。今度は少しだけ形を意識する。丸く、小さく、手のひらに収まるように。黒い靄が、ゆっくりと一つに集まっていく。
「……行け」
岩へ向かって手を振る。黒い球がゆっくりと飛んだ。
――ポン。
岩に当たる。何も起こらない。ただ、黒い靄が岩に当たって消えただけだった。
「……弱い」
思ったよりずっと弱かった。あの灰牙狼を倒した力とはまるで違う。
「……何が違う」
あの時、僕は必死だった。死にたくなかった。
……つまり、この力は僕の感情によって強くなるのだろうか。憎しみ。恐怖。怒り。生きたいという願い。
それが正しいのかまだ分からない。でも今は、それだけが手掛かりだった。
*
傷の手当てをしてから僕は再び歩き始めた。
肩の傷はさっきより痛む。けれど、動けないほどではなかった。持っていた布を巻きできるだけ血を止めた。
問題は食料だった。鞄の中に残っているパンはあと一日分。水も多くはない。早く街へ着かなければならない。
僕は歩きながら、 何度も右手を見つめた。
――闇の力。僕のもの。僕だけの力。
その言葉が不思議と胸に残った。でも同時に、怖かった。また、あの力が暴れたらどうなる。また、殺してしまったら。
「……」
僕は歩みを止めた。前方の森から枝の折れる音がした。
――バキッ。
身体が反射的に強張る。
「……また?」
さっきの記憶が蘇る。牙。血。恐怖。そして、死。逃げたい。そう思った。でも、さっきとは違う。今の僕には少しだけ力がある。
僕はゆっくりと右手を前へ出した。
「……」
心臓が早くなる。森の中から、何かが姿を現した。灰色の毛。四本の足。
……また狼?
違う。今度は、さっきの灰牙狼より小さい。だが、鋭い牙を剥き出しにしている。そして、一匹ではなかった。
「……二匹」
僕の喉が鳴った。一匹が左へ回る。もう一匹が右へ回り挟まれている状態。逃げ道を探すが……ない。
「……」
さっきならきっと何もできなかった。逃げようとして、転んで、追い詰められていた。でも、今は少しだけ違う。
僕は目の前の魔物を見た。
「……来るなら」
声が震えている。それでも。
「来い!」
二匹が同時に地面を蹴った。
「……っ!」
僕は右手を握る。胸の奥でさっきの感覚を探す。生きたい。死にたくない。違う。ただ、それだけじゃない。
――僕の人生は、僕が決める!
「……来い」
手のひらに黒い靄が集まる。一匹が僕へ飛びかかる。僕はその姿を最後まで見た。怖い。でも、逃げない。
「――っ!」
右手を振る。黒い靄が前へ飛ぶ。さっきのような巨大な力ではない。細い、一本の闇。それでも、魔物の身体を捉えた。
「――ギャッ!」
魔物が地面へ落ちる。
「……!」
できた。さっきとは違う。僕が自分で狙った。
もう一匹が横から飛びかかる。
「……っ!」
避ける。牙が頬を掠める。僕は地面へ転がった。すぐに立ち上がる。魔物が振り返る。
さっきの僕ならここで恐怖に飲まれていた。でも。
「……」
僕は右手を見た。できる。さっきはできた。なら、もう一度。
僕はゆっくりと息を吐いた。焦るな。怖がるな。感情に飲まれるな。
――僕が、この力を使う!
魔物が飛びかかってくる。僕は手を前へ出した。
「……そこだ!」
黒い靄が指先から伸びる。今度は迷わなかった。闇が魔物の身体を貫く。
「――ッ!」
魔物が地面へ倒れた。静かになった。
「……」
僕はしばらくその場に立っていた。息が荒い。身体も震えている。でも、さっきとは違った。
自分の手を見る。
「……使えた」
小さく呟いた。怖くなかった。……いや、怖かった。でも、怖いまま戦えた。
さっき僕を救った力を、今、僕は初めて自分の意思で使った。
「……闇の力」
そう呟く。「災厄」という名前より、今はこの方が僕にはしっくりきた。僕を苦しめるための力ではない。少なくとも僕はそう信じたかった。
*
それからしばらく歩いた。森を抜ける頃には、太陽がゆっくりと傾き始めていた。
遠くから馬車の音が聞こえる。
――ガラガラ。
僕は思わず足を止めた。人がいる。そう思った瞬間、身体が勝手に緊張した。また、怖がられるかもしれない。また、「災厄」と呼ばれるかもしれない。僕は右手をそっと鞄の陰へ隠した。
やがて、一台の馬車が街道の向こうから姿を現した。荷物を大量に積んだ行商人らしい馬車。馬車は僕の前でゆっくりと止まった。
「おい、坊主」
御者台に座っていた男が僕を見た。
「一人か?」
身体が強張る。
「……はい」
「こんなところで?」
「……」
何と答えればいいのか分からない。公爵家を出てきた。家族に捨てられた。そんなこと、言えるはずがない。
「……街へ行く途中です」
それだけ答えた。男はしばらく僕を見ていた。そして。
「怪我してるじゃないか」
「……え?」
思わず顔を上げた。
「その腕」
男が僕の肩を指差す。
「魔物にでも襲われたのか?」
「……はい」
「一人で!?」
僕は頷いた。男は驚いたような顔をした。
「そりゃ無茶だな」
でも、それだけだった。「怖い」とも「災厄だ」とも言わない。
「……」
僕は男の顔を見つめた。
「なんだ?」
「……いえ」
男は不思議そうな顔をした。
「この先に街がある」
そう言って街道の先を指差した。
「このまま歩けば、日が落ちる前には着くだろう」
「……」
「だが、今日はもう魔物が出やすい時間だ。気をつけろ」
そして、馬車の荷台から小さな水袋を取り出した。
「ほら」
「……え?」
「水だ」
僕はすぐに受け取れなかった。男は少し笑った。
「毒なんて入ってないぞ」
「……」
「怪我した子供を見捨てるほど、俺も悪人じゃない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛くなった。
――怪我した子供。
父ならそんな僕を見ても何も言わなかっただろう。兄さんも、姉さんも、もう心配なんてしてくれない。それなのに名前も知らないこの人は、僕に水をくれた。
「……」
どうしていいか分からなかった。胸の奥が温かくなる。でも、同時に苦しい。
僕はゆっくりと、水袋を受け取った。
「……ありがとうございます」
自分の声が、少しだけ震えた。男は笑った。
「気にするな」
それだけ言うと、手綱を握った。
「街で会うことがあったら、今度はもっとマシな飯でも食わせてやるよ」
「……はい」
馬車がゆっくりと走り出す。僕はその背中を見送った。
「……」
手の中には水袋。ただ、それだけ。なのに、胸の奥が妙に温かかった。
知らない人だった。僕の名前も知らない。僕が「災厄」と呼ばれていることも知らない。それでも、普通に話しかけてくれた。普通に、心配してくれた。
「……」
十年間、僕が欲しかったものは、こんな当たり前のことだったのかもしれない。
僕は水袋を大切に鞄へしまった。そして、再び歩き始めた。
*
森を抜ける。その瞬間、僕は足を止めた。
「……」
遠くに石造りの城壁が見えた。夕日に照らされ、赤く染まっている。城壁の向こうから、人々の声が聞こえる。馬車の音。子供の笑い声。何かを売る商人たちの声。生きている。そんな音がここまで届いていた。
「あれが……」
街。僕がこれから生きていく場所。まだ僕を知っている人はいない。僕がヴェルステット公爵家の人間だったことも、「災厄」と呼ばれていたことも、誰も知らない。
なら、僕は何にでもなれる。
いや、違う。何にでもならなくていい。僕は僕として生きればいい。
「……ノクト」
自分の名前を小さく呟いた。誰かに呼ばれるためじゃない。自分自身が忘れないために。
僕はノクトだ。災厄じゃない。怪物でもない。誰かに決められた存在じゃない。これから何になるのかは、僕が決める。
右手を見る。あの黒い力がここにある。まだ正体は分からない。何ができるのかも分からない。それでも、昨日までとは違う。僕には自分の足がある。自分の意志がある。そして、自分の力がある。
――もう、誰かに、僕の人生を決めさせない。
僕は、遠くに見える街へ向かって、ゆっくりと歩き出した。夕日が背中を照らしている。
その先には、まだ何が待っているのか分からない。新しい出会い。新しい世界。そして、新しい人生。それでも、今だけは前を向けた。
僕は自分の力で、この世界を生きていく。そう、心に決めた。
城門が少しずつ近づいてくる。十六歳。家族も、居場所も、何も持っていない。だけど、僕にはまだ、未来があった。
――僕の新しい人生が、今、ここから始まる。
僕は、一度も振り返らなかった。




