第四話 家出
十六歳になった夜、僕は屋敷を出た。
荷物は少ない。着替えが数着と、わずかな路銀。それだけを古びた鞄に詰め込んだ。
部屋を見回す。十年間、僕が閉じ込められていた部屋だった。豪華な家具があるわけでもない。壁には絵画も飾られていない。窓の外には庭が見えるだけ。それでも、ここにはたくさんの記憶があった。
――いや。記憶なんて、呼べるものではないのかもしれない。
誰かを待った夜。誕生日に、扉の外を見つめ続けた夜。足音が聞こえるたびに、父かもしれない。兄さんかもしれない。姉さんかもしれないと期待した。でも、扉が開いたことは、一度もなかった。
「……」
もう一度、部屋を見回す。何も持っていくものはない。ここには、僕が失いたくないと思えるものが、一つも残っていなかった。
鞄を肩にかける。そして、扉へ手を伸ばした。
「さようなら」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。家族へなのか。この屋敷へなのか。それとも、十年間、ずっとここで、誰かに愛されることを待ち続けていた、自分自身へなのか。
扉を閉める。その音が、妙に大きく、廊下へ響いた。
*
屋敷は静まり返っていた。深夜。使用人たちも眠っている。僕は誰にも見つからないよう、足音を殺して廊下を歩いた。
途中、兄さんの部屋の前を通る。足が止まりそうになった。
――アルバート兄さん。
六歳の頃、僕が初めて木剣を握ったとき。
「そうじゃない。もっと腰を落とせ」
そう言いながら、兄さんは笑っていた。
「ノクトは筋がいいかもしれないな」
あの言葉が、今でも耳に残っている。
扉を見つめた。この向こうに、兄さんがいる。もしかしたら、最後に一度くらい、話をしてくれるかもしれない。そんな考えが、ほんの一瞬だけ、頭をよぎった。
……違う。僕はゆっくりと首を振った。もう、期待しないと決めた。
扉に背を向ける。そして、そのまま歩き出した。今度は、姉さんの部屋の前を通る。足を止めなかった。もう、何も思い出さないようにした。思い出せば、また、期待してしまうから。
*
裏門を抜ける。誰にも見つからなかった。誰も、僕を止めなかった。それでいい。この十年間、僕はこの家で「いないもの」として扱われてきた。今さら、誰かが僕を止めるはずもない。
門を閉める。重い鉄の音が、夜の闇に響いた。
振り返った。ヴェルステット公爵家。僕が生まれた家。僕が育った家。そして、僕を捨てた家。窓のいくつかには、まだ明かりが灯っていた。あの中には、父がいる。兄さんがいる。姉さんがいる。僕がいなくなったことに、誰かは気づくだろう。でも、誰も追いかけてはこない。分かっていた。それでも、ほんの少しだけ、待ってしまった。
……馬鹿だ。僕は自分を笑った。もう、期待しないと決めたのに。
「……さようなら」
今度は、はっきりと、屋敷へ向けて言った。そして、僕は歩き出した。
夜風が頬を撫でる。冷たいはずなのに、なぜか少しだけ心地よかった。
――ようやく、息ができる。
そんな気がした。
*
王都から離れた街道を、僕はただ歩いた。行く先は決めていない。それでも、足を止める理由もなかった。
空が少しずつ明るくなっていく。朝日が、地平線の向こうから姿を現した。僕は立ち止まり、その光景を見つめた。
屋敷の中では、朝が来ることさえ嫌だった。また、同じ一日が始まる。誰にも話しかけられず、誰にも必要とされず、ただ一日が終わるのを待つだけ。でも、今日の朝は違った。これから何が起こるのか分からない。どこへ行くのかも分からない。それでも、僕は自分でこの道を選んだ。
――自由。
それが、少しだけ、嬉しかった。
*
冒険者になろう。そう決めていた。貴族の家を捨てて、家名も捨てて、生きていくなら、それしか思いつかなかった。
使用人たちの噂話を、何度も聞いたことがある。王都の外れには、家柄に関係なく、剣や魔法の腕一本で生きていく者たちがいる。冒険者。魔物を倒し、依頼をこなし、自分の力で生きていく者たち。そこなら、ヴェルステット公爵家の人間ではなく、ただのノクトとして生きられるかもしれない。
……でも、問題があった。
「……戦えない」
思わず、口に出していた。剣も、まともに扱えない。魔法も、まともに使えない。六歳の頃、兄さんに握らせてもらった木剣。その感触だけが、遠い記憶として残っている。あの日を境に、稽古の約束は、すべてなくなった。
あるのは、腰に差した小さなナイフ。果物を切るために持ち出した、頼りない刃物だけだ。そして、あの夜、初めて僕の手のひらに現れた、黒い力。闇魔法……なのだろうか。それすら、僕には分からない。どうやって使うのか。どこまでの力があるのか。使えば何が起こるのか。何も分からない。
僕は歩きながら、右手を見つめた。あの夜、この手のひらから、黒い靄が現れた。まるで、僕の憎しみに応えるように。僕の感情を、待っていたかのように。
「……」
指を開く。何も起こらない。手を握る。それでも、何も起こらない。
……やっぱり、あれは夢だったのだろうか。そんなはずはない。確かに見た。感じた。あの、冷たいような、それでいて妙に懐かしい力を。
――災厄。
その言葉が、頭をよぎった。僕は思わず手を握りしめた。
「……」
もし、あれが本当に「災厄」の力だったら。また、誰かに拒絶されるかもしれない。また、僕を恐れる人が現れるかもしれない。僕の力を見て、父と同じような目を向けるかもしれない。考えるだけで、胸の奥が重くなる。
――もし、また、誰かを傷つけてしまったら。
それでも、僕は歩いた。後ろには、もう何もないのだから。
*
一日。二日。僕は、ただ街道を歩き続けた。
夜は木の根元で眠った。持っていたパンを、少しずつ食べた。水は街道沿いの小さな川で汲んだ。誰かと話すことはなかった。
それでも、不思議だった。屋敷で一人で食べる食事よりも、固くなったパンの方が、少しだけ美味しく感じた。
――自由だからだろうか。
そう思った。
*
二日目の夕暮れ。太陽が、山の向こうへ沈み始めた頃だった。
木々の合間から、獣の唸り声が聞こえた。
「……?」
足を止める。辺りを見回した。風が木の葉を揺らす。それだけ。そう思った。
次の瞬間――
ガサッ!
「――っ!」
茂みが大きく揺れた。何かが飛び出してくる。灰色の毛並み。大きな身体。剥き出しの牙。
「……狼?」
いや、違う。普通の狼ではない。その身体は、僕が知っている狼より一回り以上大きい。目は赤く光っている。
――魔物。
本で読んだことがある。街道付近に現れる、比較的弱い魔物。灰牙狼。冒険者になったばかりの者でも、数人いれば倒せる。
……数人いれば。
「……一人で?」
心臓が大きく跳ねた。灰牙狼が低く唸る。こちらをじっと見ている。
逃げればいい。そう思った。でも、足が動かない。灰牙狼が、ゆっくりと僕へ近づいてくる。
「……来るな」
声が震えた。腰のナイフを抜く。小さな、果物を切るために使うようなナイフ。これで、あの魔物と戦う?無理だ。そんなこと、考えなくても分かる。それでも、武器を手放すことはできなかった。
灰牙狼が地面を蹴った。
「――っ!」
身体が勝手に動いた。横へ飛ぶ。狼の牙が、目の前を通り過ぎた。風圧が頬を切る。
「っ……!」
地面へ転がる。すぐに立ち上がる。灰牙狼が、こちらを振り返った。
――速い。逃げられない。
次の瞬間、狼がもう一度地面を蹴った。
「……っ!」
ナイフを前へ出す。狼の牙が、僕の腕を掠めた。
「ぐっ……!」
熱い痛み。血が腕を流れる。僕は後ろへ倒れ込んだ。ナイフが地面へ落ちる。
「……っ」
拾おうとする。でも、狼が僕とナイフの間に立った。逃げ道がない。僕は、ゆっくりと後ろへ下がった。背中に何かがぶつかる。振り返る。岩壁。
「……」
終わった。そう思った。
灰牙狼が、ゆっくりと近づいてくる。牙の隙間から涎が落ちる。逃げられない。戦えない。誰も助けてくれない。
――ああ、また、これか。
そう思った。何もできない。何も変えられない。ただ、目の前にあるものを受け入れるしかない。十年間、ずっとそうだった。父が僕を捨てたときも。兄さんが僕から目を逸らしたときも。姉さんが約束を忘れたときも。僕には、何もできなかった。
……でも、違う。今は違う。僕は自分でこの家を出た。自分でこの道を選んだ。それなのに、ここで何もできないまま、死ぬのか?
灰牙狼が、さらに近づく。
「……嫌だ」
声が震えた。でも、今度は恐怖だけではなかった。
「嫌だ」
また、誰かに、僕の人生を決められる。そんなのは、もう嫌だった。
狼が地面を蹴る。
「嫌だ!」
飛びかかってくる。牙が僕へ迫る。
「僕は……!」
身体の奥で、何かが弾けた。
「まだ死にたくない!!」
その瞬間、世界から音が消えた。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。ドクン。ドクン。ドクン。
そして、手のひらが熱くなった。
「……っ!?」
腕を伸ばす。その手から、黒いものが溢れ出した。靄。違う。闇。夜よりも深く、光を飲み込むような黒。それが、僕の手のひらから、爆ぜるように広がった。
「――ッ!?」
灰牙狼が、空中で動きを止めた。闇が、狼の身体へ絡みつく。耳を裂くような、魔物の悲鳴が森に響いた。
「……な……」
僕は何もしていない。ただ、死にたくないと、そう思っただけだ。
黒い闇が灰牙狼を包み込む。その身体が、地面へ叩きつけられた。
――ドンッ!
地面が揺れる。灰牙狼が立ち上がろうとする。でも、できない。黒い靄が身体へ絡みついている。まるで、何かが狼を地面へ押さえつけているようだった。
「……」
僕は震える手を見た。黒い闇が、まだ指先から溢れている。
――これ、僕がやっているのか?
分からない。どうすれば止められるのかも分からない。
灰牙狼が僕を睨む。そして咆哮した。黒い靄を振り払う。
「……っ!」
狼が立ち上がる。闇は完全には止められなかった。灰牙狼は、再び僕へ向かってくる。
――駄目だ。このままじゃ、また殺される。
逃げたい。怖い。身体が震えている。でも、もう、目を逸らしたくなかった。僕はゆっくりと狼を見た。そして、右手を前へ出す。
「……来い」
自分でも驚くほど、静かな声だった。狼が地面を蹴る。僕は手のひらを強く握りしめた。
「僕は……」
黒い闇が手のひらへ集まる。
「僕は、生きる」
その瞬間、闇が一本の槍のように、狼へ向かって伸びた。
「――ッ!?」
灰牙狼の身体を、黒い闇が貫いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。狼の身体が、ゆっくりと地面へ倒れる。
――ドサッ。
静かになった。
「……」
僕は動けなかった。しばらく、何も考えられなかった。ただ、倒れた灰牙狼を見つめていた。
やがて、血の匂いが鼻へ届く。そのとき、ようやく理解した。
「……僕が」
声が震える。
「僕が……殺した」
初めて、生き物を殺した。自分の手で、魔物を殺した。吐き気がした。胃の奥が、ひっくり返りそうになる。その場へ膝をついた。
「……っ」
震える手を見る。そこには、もう闇は残っていなかった。何もなかった。さっきまで、確かにここにあったはずなのに。
――僕が、やった。
胸が苦しい。怖い。でも、僕は生きている。胸に手を当てる。心臓が、まだ動いている。ドクン。ドクン。ドクン。
「……生きてる」
思わず呟いた。誰に向けるでもなく、ただ確かめるように。
「僕は……」
灰牙狼を見る。自分の手を見る。そして、空を見上げた。夕暮れだった空は、いつの間にか夜へ変わっていた。屋敷の窓から見ていた夜とは、何もかもが違う。
誰も、僕を助けてくれない。誰も、僕を守ってくれない。でも、だからこそ、僕は自分で生きなければならない。
「……僕は、生きる」
今度は、はっきりと言った。誰かに聞かせるためではない。自分自身に、聞かせるために。
父に。兄に。姉に。捨てられたから、死ぬんじゃない。誰にも必要とされなかったから、終わるんじゃない。僕の人生は、僕が決める。
僕はゆっくりと立ち上がった。身体中が痛い。腕から、まだ血が流れている。怖くないわけじゃない。これから何が待っているのかも分からない。この力が何なのかも分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。あの屋敷を出た。そして、初めて、自分の力で生き残った。それだけで、今の僕には十分だった。
僕はもう一度、倒れた灰牙狼を見た。そして、震える右手を、ゆっくりと握りしめる。
――この力は、一体、何なんだ。
その答えを、僕はまだ知らない。ただ、胸の奥で、何かが静かに目を覚まし始めていることだけは、確かだった。
命を奪った手のひらの感触は、いつまでも消えなかった。これから先、この手でまた何かを殺すたびに、この重さを思い出すのだろうか。そう考えると、僅かに胸の奥が冷えるのを感じた。
夜の森に、冷たい風が吹き抜ける。僕はその場に立ったまま、暗闇の奥を見つめた。
これから先、どんな未来が待っているのか、分からない。でも、もう、後戻りはできない。
――僕は、生きる。
その言葉だけを胸に、十六歳の僕は、初めて自分の力で、世界と戦った。




