第三話 孤独
この世界には、生まれながらにして「スキル」と呼ばれる力が宿っている。
剣術・槍術・魔法・治癒などの戦闘スキルから、統治系、生産系、家庭系まで、その種類は数え切れないほどあり、貴族であれば六歳の「鑑定の儀」で、平民であれば十歳前後の簡易鑑定で、それぞれの適性が明らかになる。
貴族が平民と比べて早い段階で適性スキルが分かるようになるのは、スキルの習熟度を高めるためらしい。平民に劣ってはならないという、如何にも貴族様という考え方だ。
優れたスキルを持つ者は騎士団や宮廷に迎えられ、時には一代で成り上がることもできる。逆にこれといったスキルを持たない者は、平凡な人生を歩むことになる。ごく稀に、誰からも忌み嫌われるスキルを授かる者がいる。僕がそうだった。
王国には四大公爵家と呼ばれる名門が存在し、ヴェルステット家はその一角を占めている。代々、優れたスキルを持つ者を輩出し、王家からの信頼も厚い。それだけに、「災厄」という王国を滅ぼしかねない力を持ったスキルは逆賊として恐れられ、家の名誉を根底から揺るがすものであった。
そのことを僕はこの十年で嫌というほど思い知ることになる。
*
その日から僕は屋敷の中で完全に独りになった。食事も一人、剣の稽古も一人、魔法の稽古も一人、誕生日も。
最初の頃は、それが一時的なものだと思っていた。父さんも、兄さんも、姉さんも、少し時間が経てば、また以前のように笑ってくれる。そう信じていた。いや、信じようとしていた。
兄さんの誕生日も、姉さんの誕生日も、屋敷では楽器の音が聞こえ、笑い声が響くほど盛大に祝いが開かれる。慌ただしく廊下を走る使用人たちの足音、美味しそうな料理の香り、楽しそうに交わされる声。そのすべてが僕の部屋まで届いてくる。
でも、僕がその部屋へ入ることは許されない。
「災厄の子がいると、場の空気が悪くなる」と言われた。
魔法の家庭教師も「鑑定の儀」を境に姿を見せなくなった。それまで週に何度か組まれていた稽古の予定は、何の説明もなく白紙になった。基礎の詠唱さえ満足に教わっていなかった。
「災厄の子は、魔法もろくに使えないらしい」
廊下ですれ違う使用人たちが、そう囁くのを何度も聞いた。教わってすらいないのだから使えるはずがない。そう言い返したかったけれど誰も僕の言葉になど耳を貸さなかった。
最初は意味が分からなかった。僕が何をしたのか、何が悪かったのか聞こうとした。でも、誰も答えてくれず、扉を閉められた。
兄姉の誕生日は盛大に開かれるのにもかかわらず、僕の誕生日には誰も来なかった。朝いつも通り食事が置かれていた。ーーそれだけだった。
最初の頃は待っていた。父が来るかもしれない、兄さんが来るかもしれない、姉さんがこっそりプレゼントを持ってくるかもしれないと。
夜になっても待っていた。扉の外で足音がするたびに心臓が跳ねた。ーー来た。そう思った。何度も、何度も。でも、その足音はいつも僕の部屋の前を通り過ぎていくばかりで僕の部屋の扉を開ける人は誰もいなかった。
窓の外が暗くなり、部屋の蝋燭が短くなっても僕はずっと待っていた。そして、いつの間にか眠っていた。
翌朝、目を覚ました僕を待っていたのは誰の姿でもなかった。テーブルの上に置かれた冷めた料理だけだった。僕は椅子に座り、それを一人で食べたが、味は分からなかった。
いつからか、何を食べても味がしなくなっていた。ーーそうだ。もう、期待するだけ無駄なんだ。
それを僕は少しずつ、けれど確実に覚えていった。
*
一年が過ぎ、気がつけば五年が過ぎていた。それでも何も変わらなかった。さらに五年、十六歳になる頃には僕は誰とも話さなくなっていた。話しかけても返事が返ってこない。笑いかけても視線を逸らされる。近づけば距離を取られる。
だから、僕も何も言わなくなった。
言葉を発さない日々が続くと、自分の声がどんな響きだったのかさえ分からなくなる。声を出そうとしても喉の奥で言葉が止まる。ーー何を話せばいい? そんなことさえ分からなくなっていた。鏡を見ても、そこに映る自分が本当に自分なのか確信が持てなくなっていく。目の前にいるのは僕なのか。それともただの「災厄」なのか。
六歳の頃、父が僕の頭を撫でた。兄さんが一緒に戦おうと言った。姉さんがずっと味方だと約束した。その記憶が今では僕を一番苦しめていた。思い出すたびに胸の奥が抉られるように痛んだ。
どうしてあんなことを言ったのだろう。どうして期待させたのだろう。最初から愛してくれなければよかった。最初から家族なんていなければよかった。そうすればこんなに苦しくならなかったのに。いっそ最初から一人だったなら、父の温もりも、兄の笑顔も、姉の優しい声も知らずに済んだのに。
いっそ、憎むことさえできれば楽だったのかもしれない。でも、その頃の僕はまだ憎むことさえできなかった。悲しむことも。怒ることも。何かを感じることさえ、僕には贅沢なことのように思えていた。
*
十六歳になった頃。僕は偶然、父とアルバート兄さんの会話を聞いてしまった。
夜、執務室の前を通りかかったときだった。
「父上」
「何だ」
「ノクトのことですが」
足が止まった。
「……あれがどうした」
父の声。ーーあれ。父は僕のことを名前で呼ばなかった。
「もう十年です」
「だから何だ」
「……何も起きていません」
「今はな」
「父上」
兄さんの声が、少し強くなる。
「ノクトは……何もしていません」
僕は息を止めた。兄さんは僕のことをまだノクトと呼んでくれた。胸の奥に、消えかけていた小さな火が一瞬だけ灯った。もしかしたら、兄さんだけはまだ――。
「俺たちは……俺たちは、あいつを少し……」
「……今さら何を言う」
父が遮った。
「忘れたのか」
低い声。
「あれは災厄だ」
「でも!」
「黙れ」
兄さんが黙る。
「お前はあれをまだ家族だと思っているのか?」
胸が締めつけられる。兄さん。お願いだから。僕をまだ家族だと、そう言って。
長い沈黙が続いた。その数秒が何年にも感じられた。
「答えろ、アルバート」
兄さんの声が聞こえた。
「……分かりません」
僕は目を閉じた。胸の奥に灯った小さな火が音もなく消えていくのが分かった。
「俺には……もう、ノクトが、分からない」
父が鼻で笑った。
「それでいい」
僕は動けなかった。十年間もの時間、僕は何を待っていたんだろう。いつか元に戻れると。また、名前を呼んでくれると。また一緒に笑えると。愚かにもまだ期待していた。
でも、違った。あの人たちはもう僕を家族だと思っていない。僕だけが十年前の家族をまだ愛していた。
*
数日後、執務室へ来いと父に呼び出された。僕が父に褒められた場所。父が僕を見て笑ってくれた場所。今となってはそれすら悪い冗談のように思えた。
「座れ」
父は机の向こう側にいた。僕は椅子へ座る。しばらく沈黙が続いた後、父は一枚の書類を手に取り僕の前へ叩きつけた。
バンッ!
「……っ」
肩が跳ねる。
「今日から、お前を正式にこの家の者として扱わない。今後、この家や兄や姉との接触も、一切禁じる」
「……え?」
「どうして?」
「お前の存在が、他の者を不安にさせる」
「僕、何もしてない」
「スキルが問題なのだ」
「でも!」
僕は立ち上がった。
「スキルは僕じゃない! 僕はノクトだよ! 父さんの子供だよ!」
父の表情がほんの少しだけ歪んだ気がした。けれど、次の瞬間にはその目から感情が消えたいた。初めから何の感情も存在しなかったかのように。
「……血が繋がっているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
理解できなかった。
「お前は、この家に災厄を持ち込んだ。それだけだ」
「違う。僕が持ち込んだんじゃない。僕が選んだんじゃない」
父の目を見た。
「僕だってこんなの欲しくなかった。父さんたちがすごいスキルを持っているって言ったから、僕も……頑張ろうと思っただけなのに」
涙が溢れてくる。父は何も言わなかった。
「父さん」
僕は最後の希望に縋るように尋ねた。
「僕は……僕は、父さんの子供じゃないの?」
父はしばらく黙っていた。長い、長い沈黙だった。その沈黙の一秒一秒が、僕の中に残っていた何かを少しずつ確実に殺していった。
「……もう、その質問をするな」
その一言ですべてが終わった。僕は父の答えを待った。でも父は答えなかった。ただ、書類へ視線を落とした。
「出ていけ。今すぐだ」
僕は椅子から立ち上がった。扉へ向かう。そのとき、父が小さく呟いた。
「……お前が生まれなければよかった」
足が止まった。心臓が止まったような気がした。世界から音が消えた。
「……え?」
聞き間違いだと思った。振り返る。
「聞こえただろう。お前が生まれなければ、この家が笑われることもなかった。アルバートも、シャルロットもお前を怖がることなどなかった」
父はこちらを見なかった。僕の頭の中が真っ白になった。何も考えられない。何も感じられない。ただ、その言葉だけが頭の中で何度も何度も繰り返された。
ーーお前が生まれなければよかった。
「……父さん」
声が出ない。
「……僕」
涙が止まらなかった。
「僕……いらなかった?」
父は答えなかった。その沈黙が答えだった。
その日、僕という存在はこの家において完全に終わった。生きてはいる。息もしている。心臓も動いている。ただ、誰にも必要とされていない。それがどれほど恐ろしいことなのか、あの日の僕は骨の髄まで思い知らされた。
*
それから僕は屋敷の誰とも一切関わらずに過ごした。
かつて庭で兄さんと木剣を振った場所を通り、あの日の声が蘇る。
『もう一回やってみよう』
『大丈夫だ』
ーーもう二度とそんな言葉をかけられることはない。書庫の窓辺で、かつて姉さんと魔法の練習をした場所を見下ろすたびにあの日の言葉が蘇る。
『お姉ちゃんが、ずっと味方だから』
ーーあの約束はたった数時間で跡形もなく消えた。
鏡に映る自分の顔を見るたびに僕は思った。この顔のどこにも僕自身と呼べるものがない。あるのは「災厄」という二文字に塗り潰された空っぽの器だけだった。
王都の外れでは貴族に見放された者たちが冒険者として生計を立てているという話を使用人たちの噂話で耳にしたことがあった。家柄に関係なく、自分の力だけで生きていける場所。そこでは、スキルの善し悪しよりも実力そのものが物を言うのだという。
ーーそこでなら、僕は。
そう思ったことも一度や二度ではなかった。けれど、その度に僕は自分を押し留めていた。まだ、どこかで期待していたのかもしれない。いつかこの家族が僕を見てくれる日が来るかもしれない、と。
……そんな日は、もう来ないのに。
その淡い期待が完全に消え去ったのは、あの夜の会話を聞いてからだった。
*
部屋へ戻った僕は、窓の外を見た。庭には昔、兄さんと木剣を振った場所がある。姉さんと魔法の練習をした場所がある。父が僕を見ていた窓がある。全部、まだ残っている。何一つ変わっていない。でも、もうあの頃はない。あるのは僕だけだ。あの頃の思い出に一人だけ取り残された僕だけが。
「……憎い」
初めて、その言葉が口から出た。自分でも驚いた。声にした瞬間に胸の奥で何かが切れた。
「……憎い」
もう一度、呟く。
「憎い」
父が憎い。
「憎い」
兄さんが憎い。
「憎い」
姉さんが憎い。
「憎い」
みんな、憎い。
僕は何も悪くなかった。誰も傷つけていない。誰も殺していない。僕はただ生まれただけだ。ただ「災厄」というスキルを持っていただけだ。それなのに十年。僕の人生を全部奪われた。優しさも、信頼も、笑顔も、家族という言葉の意味さえも、根こそぎ奪われた。
「……ふざけるな」
拳を握る。爪が手のひらに食い込む。痛い。でも、その痛みが今は少しだけ心地よかった。まだ、何かを感じられる。まだ、怒れる。まだ、僕は生きている。
その瞬間だった。握りしめた拳の隙間から、黒い靄のようなものが細く立ち上った。
「……っ、な……」
驚いて僕はゆっくりと手を開いた。指先に闇そのものを凝縮したような黒い粒子が渦を巻いていた。
「……何だ、これ」
思わず、後ずさる。黒い粒子は、僕の手のひらの上で静かに揺れていた。
ーー魔法もろくに使えない災厄の子。ずっとそう言われ続けてきた。けれど、当然だった。基礎の詠唱すら、誰も教えてくれなかったのだから。使い方を知らないものを使えるはずがない。それなのに誰にも教わっていないはずのこの力は、迷いなく僕の意志に応えていた。
この世界において闇の魔力は古くから不吉なものとされている。夜に紛れて姿を隠す獣、光の届かない場所に巣食う魔物ーー闇属性そのものが人々の恐れと結びついてきた歴史があった。だからこそ、「災厄」という名で顕現したこの力は余計に人々の目に恐ろしく映ったのだろう。
けれど、怖くはなかった。むしろ、初めてだった。初めて、自分の内側にある何かと、はっきり繋がったような気がした。
「これが……災厄の、力」
僕は、もう一度手のひらを見つめた。この力はまるでずっと前から僕の中にあったかのように当たり前のように僕の意志へ応えていた。
指を動かす。すると、黒い粒子がゆっくりと指先へ集まった。手を握る。黒い靄も、僕の動きに合わせるように形を変えた。開く。広がる。握る。収束する。僕の言葉を聞いているわけでもない。魔法の詠唱をしているわけでもない。ただ、僕がそうしたいと思っただけでこの力は動いた。
「……僕の……力?」
窓ガラスに映る自分を見る。そこにいたのは、六歳の頃の怯えて泣いていた子供ではなかった。十年間「災厄」と呼ばれ、恐れられ、避けられ、家族にさえ存在を否定され続けた僕。その僕の手の中で黒い力が静かに揺れていた。
「災厄……」
ずっと僕を苦しめてきた名前。家族を奪った名前。僕からすべてを奪った名前。ーーこの黒い力の本当の正体は何も分からない。でも、一つだけ確かなことがあった。この力は僕を拒絶しなかった。父も、兄も、姉も誰も僕を必要としなかった。でも、この力だけは僕の中に残っていた。僕を捨てなかった。
「……そうか」
思わず笑いが漏れた。十年ぶりに自分から笑った気がした。
「僕には……これがある」
その言葉を口にした瞬間、黒い靄がわずかに大きく揺れた。まるで僕の言葉に応えるように。まるで僕の感情を理解しているかのように。ぞくり、と背筋が震える。それでも、手を引くことはできなかった。いや、引きたくなかった。
初めてだった。誰かに拒絶されず、誰かに恐れられず、僕の存在をそのまま受け入れてくれるものに触れた気がした。ーーまるで、僕の憎しみをずっと待っていたかのように。
僕はゆっくりと窓の外を見た。ヴェルステット家の紋章。僕を捨てた家。僕をいらないと言った家。手のひらの闇がまるで意志を持つように、静かに脈打っていた。
「僕は絶対にお前たちを許さない」
その瞬間、手のひらの黒い靄が大きく揺らめいた。まるで歓喜しているかのように。
僕はその光景を見つめながら、初めて自分の中にある「災厄」を恐れたいとは思わなかった。涙はもう出なかった。代わりに胸の奥に今までなかったものが生まれていた。怒り、憎しみ。
そして、いつか必ず自分を捨てたことを後悔させるという冷たく黒い決意。そのためならどんな力でも手に入れる。どんな場所へでも行く。
僕は、もうこの家の人間ではない。ーーヴェルステット公爵家。いつか必ず僕を捨てたことを後悔させてやる。
僕は静かに机へ向かった。荷物をまとめ始める。もうこの家に残る理由はない。
窓の外はいつの間にか夜の闇に沈んでいた。月明かりさえ届かない重く深い闇。まるで今の自分自身のようだった。手のひらに宿った黒い力はまだ僅かに燻っている。使い方も、正体も何も分からない。それでも、確かなことが一つだけあった。
ーーもう、僕は誰にも期待しない。もう誰にも僕の人生を決めさせない。
そして僕は、初めて自分の意志でこの家を出ることを決めた。手のひらに残る黒い闇を静かに握りしめる。
ーーもう、後戻りはできない。
その事実だけが、今の僕を支える唯一のものだった。




