第二話 災厄
物心つく前の記憶というのは、ひどく曖昧なものだ。
どこで何をしていたのか。誰とどんな話をしたのか。そんな細かな記憶は、時間が経つほど霧の向こうへ消えていく。それでもあの頃の温かさだけは、今でもはっきりと覚えている。
「ノクト、こっちだ。歩いてごらん」
柔らかな陽射しが降り注ぐ庭で、兄のアルバートが両手を広げていた。まだ上手く歩けない僕は、小さな足を懸命に前へ出す。
一歩。また一歩。
「そうだ。ゆっくりでいい」
兄さんの笑顔を目指して進むが、あと少しというところで足がもつれた。
「わっ……」
ぽすん。芝生の上に尻もちをつく。
「大丈夫か?」
アルバート兄さんが慌てて駆け寄って来る。その前に
「あらあら」
シャルロット姉さんが僕を抱き上げた。
「頑張ったわね、ノクト」
姉さんは僕の服についた草を払ってくれる。
「でも、転んじゃった」
「どこかケガはない?」
「だいじょうぶ!」
そう言うと兄さんと姉さんが顔を見合わせ、二人とも笑った。
「ははっ!そうこなくちゃな!」
「ふふ。強い子ね」
僕もつられて笑う。あの頃はそれだけで幸せだった。兄さんが笑って、姉さんが笑う。そして僕も。
少し離れた屋敷の窓から僕たちを見ている人がいた。ヴェルステット公爵家の当主であり、父のグリード。普段は厳しく屋敷の使用人たちからも畏れられている人だった。けれど、僕たちを見ているときだけはほんの少しだけ表情が柔らかくなっていた。
「旦那様。ノクト様は随分とお二人に可愛がられておりますな」
傍に控えていた執事が言う。
「ああ」
父は窓の外から目を離さなかった。
「アルバートも、シャルロットも、あの子には甘い」
「ですが、ノクト様もまた、お二人を慕っておられます」
庭を走ろうとして、また転んだ僕を見て父は言う
「そうだな」
と小さく笑いながら少しだけ微笑んだ。
「ククッ……」
先ほどまで庭で遊ぶ我が子を穏やかな表情で見つめていた男とはまるで別人だった。
グリードは目を細め口元に薄い笑みを浮かべる。
「あの魔力量……」
小さく息を漏らした。
「将来が楽しみだ」
その瞳の奥に宿っていたのは、父親が我が子へ向ける期待ではない。
ーーもっと別の底知れぬ欲望だった。
*
僕はヴェルステット公爵家の三男として生まれた。王国でも名の知れた名門で代々優れたスキルを持つ者を輩出してきた家系だった。
剣に優れた者。魔法に優れた者。軍を率いる統率の力を持った者。歴代のヴェルステット家には、それぞれ王国の歴史に名を残した人物がいた。だからこそ、この家に生まれた子供には大きな期待が寄せられる。僕も例外ではなかった。
「お前が大きくなったら、俺が鍛えてやる」
アルバート兄さんは、よくそう言って僕に木剣を持たせた。
「剣はこうやって握るんだ」
「こう?」
「そう。……いや、ちょっと違うな」
僕が真似をすると、兄さんは苦笑する。それでも、怒ることはなかった。
「もう一回やってみよう」
僕が失敗すれば、「大丈夫だ」。転べば、「立てるか?」と手を差し伸べてくれた。何度失敗しても、何度転んでも兄さんは必ず待っていてくれた。
「いつか一緒に戦おうな」
兄さんはそう言った。
「俺とノクトで、王国最強の兄弟になるんだ」
「ほんと!?」
「ああ。本当だ」
僕はその言葉を信じた。信じていた。シャルロット姉さんもよく僕のところへ来てくれた。そして、僕の身体に魔力が宿り始めた頃。
「まあ……今、光った?」
「ほんと?」
「ええ!」
姉さんは僕の手を握った。
「きっとノクトは、すごい魔法使いになるわ」
「すごい?」
「ええ。とってもすごい魔法使い」
「兄さんより?」
「そうね。アルバート兄様は剣だけですから」
「おい、シャルロット!」
後ろから兄さんの声が飛んでくる。
「ノクトに変なことを教えるな!」
「ふふっ。冗談よ」
姉さんは笑った。その笑顔を見るたびに僕は思った。もっと頑張ろう。兄さんに認めてもらいたい。姉さんに褒めてもらいたい。父さんにも。
父も、僕を気にかけてくれていた。食事の席で。
「最近、剣の稽古をしているそうだな」
「うん!」
「どうだ?」
「兄さんに勝てるように頑張ってる!」
「ほう」
父は少しだけ笑う。
「それは大きな目標だな」
「いつか勝つ!」
「ははは!」
父が笑った。そして、僕の頭を撫でた。
「期待しているぞ、ノクト」
その手の温かさを僕は今でも覚えている。だから、六歳のあの日。僕は疑っていなかった。どんなスキルを授かっても僕は僕のままで父も、兄さんも、姉さんもきっと変わらず笑ってくれるのだと。
*
六歳になった年。貴族の子供たちが一斉に迎える「鑑定の儀」の日がやってきた。王都の大聖堂には数多くの貴族が集まっていた。色鮮やかな衣装、家紋を掲げた馬車、着飾った子供たち。そして、子供の未来を期待する大人たちの視線。
大聖堂の中央には巨大な水晶が置かれていた。その水晶に手をかざすことで自らが持つスキルが明らかになる。
「緊張しているのか?」
隣にいたアルバート兄さんが尋ねる。
「……少し」
「大丈夫だ」
兄さんは僕の頭に手を置いた。
「お前なら、きっとすごいスキルを持っている」
「本当?」
「ああ」
シャルロット姉さんも笑う。
「どんなスキルでも、ノクトはノクトでしょう?」
「うん」
「だから大丈夫」
姉さんは僕の手を握った。
「お姉ちゃんが、ずっと味方だから」
その言葉に、僕は笑った。
「約束?」
「ええ。約束」
そのときの僕はその約束が、数時間後には跡形もなく壊れるなんて思ってもいなかった。
「次。ヴェルステット家、ノクト様」
「はい!」
名前を呼ばれた。僕は胸を張って前へ出る。父がいる、兄さんがいる、姉さんがいる。僕の大切な家族。どんな結果でも、きっとみんな喜んでくれる。そう信じて僕は水晶へ手をかざした。
ーーその瞬間。淡い光が、水晶の内部を走った。
「おお……」
周囲から小さなどよめきが起こる。光は次第に強くなっていき、水晶の表面に文字が浮かび上がり始めた。
僕は期待した。剣士?魔法使い?それとも父さんみたいな、兄さんみたいな、姉さんみたいなそんなすごい力が。
「……これは」
鑑定官の老人が呟いた。僕は顔を上げる。老人の動きが止まっていた。
「……?」
さっきまで穏やかだった表情からみるみる血の気が引いていく。手が震えている。
「これは……」
「鑑定官?」
父が声をかけたが老人は答えない。ただ、水晶に浮かんだ文字を見つめている。
「何が出たの?」
僕は尋ねると、鑑定官の目がゆっくりと僕へ向けられる。その目に浮かんでいたものを幼い僕でも理解できた。恐怖だった。
「……どうして」
僕は思わず呟いた。まだ何もしていない。まだ何も分かっていない。なのにどうしてそんな目で僕を見るのだろう。老人は唇を震わせる。そして。
「……災厄」
その言葉を口にした。災厄。意味が分からなかった。けれど次の瞬間、大聖堂の空気が変わった。
ざわ。小さな声。
「災厄……?」
「まさか」
「聞き間違いでは……」
「ヴェルステット家から?」
声が広がっていく。先ほどまで僕を見ていた視線が変わっていく。期待。興味。羨望。それらが一瞬で消えていく。代わりに、恐怖。嫌悪。警戒。まるで、僕自身が突然、化け物になってしまったかのようだった。
「……父さん?」
僕は振り返った。父を見る。父の顔からは笑顔が消えていた。
「父さん?」
もう一度呼ぶ。返事がない。父の目は僕ではなく、水晶を見ていた。
「……災厄」
父が低い声で呟く。
「父さん……?」
「よりにもよって」
父の拳が握られる。
「ヴェルステット家に……」
その言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。僕は兄さんを見る。
「兄さん」
アルバート兄さんは僕を見ていた。けれど、その表情にあったのは困惑だけではなかった。恐怖。そして、僕が今まで一度も向けられたことのないーー嫌悪。
「……嘘だろ」
兄さんが呟く。
「兄さん?」
返事がない。
「兄さん……」
「……」
「兄さん!」
「……っ」
兄さんが一歩後ろへ下がった。僕から距離を取った。その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「……姉さん」
シャルロット姉さんを見る。姉さんは口元を押さえていた。
「姉さん?」
目が合う。一瞬、泣きそうな顔をした。だから僕は思った。大丈夫だ。姉さんはきっと味方だ。さっき約束してくれた。ずっと味方だって。
「姉さん」
僕は手を伸ばした。
「大丈夫だよね?」
姉さんの唇が震える。
「ノクト……」
僕は姉さんが手を握ってくれるのを待った。姉さんは僕の手を見た。そして、ゆっくりと一歩後ろへ下がった。僕の手は何もない場所を掴んだ。
「……姉さん?」
「……ごめんなさい」
その一言が、僕の胸を深く抉った。
「どうして?」
声が震えた。
「さっき……」
喉が詰まる。
「さっき、ずっと味方だって……」
姉さんは何も言わなかった。
父が前へ出る。
「ノクト」
「父さん……」
父の目を見る。そこに、僕の知っている父はいなかった。
「鑑定官」
「は、はい」
「間違いではないのだな?」
「……間違いありません」
「……そうか」
父は目を閉じた。そして。
「帰るぞ」
それだけ言った。
「父さん!」
僕は父を追いかける。
「僕……何もしてないよ!」
父の足が止まる。
「僕、何も悪いことしてない!」
父は振り返らない。
「父さん!」
「……黙れ」
「でも!」
「黙れと言った!」
父の怒鳴り声が大聖堂に響いた。周囲の人々が僕を見る。僕は身体を震わせた。父が僕に怒鳴った。初めてだった。
「……帰るぞ」
父はそれだけ言って、僕の前を歩いていった。
*
帰りの馬車。誰も話さなかった。いつもなら兄さんが隣に座る。姉さんが僕の手を握る。父が今日の出来事を聞いてくれる。でも、今日は僕だけが少し離れた場所に座っていた。
「……父さん」
「……」
「災厄って」
誰も返事をしない。
「悪いスキルなの?」
父は窓の外を見ていた。
「……黙っていろ」
「でも……」
「黙れ」
「僕……」
「お前には理解できん」
父の言葉に、僕は口を閉じた。兄さんを見る。
「兄さん」
「……」
「僕、何か変わった?」
兄さんの肩が僅かに震えた。けれど、こちらを見ない。
「……俺に聞くな」
その声は、今まで聞いたことのないほど冷たかった。
「姉さん」
最後に、シャルロット姉さんを見る。
「……姉さんは」
僕は言葉を探した。
「まだ、僕の味方?」
姉さんの目から涙が落ちた。でも、彼女は僕の手を取らなかった。
「……ごめんなさい」
僕はそれ以上、何も聞けなかった。
*
馬車の窓から夕暮れの街並みが流れていく。さっきまで僕はあの光景の中にいた。着飾った人々。祝福の言葉。輝かしい未来を疑ってもいなかった、ほんの数時間前の自分。今はもうそれがひどく遠いことのように思えた。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。いつもと同じ顔のはずなのに、まるで知らない誰かのように見えた。
ーー僕は、何も変わっていないのに。
水晶に浮かんだ、たった二文字。それだけで、世界のすべてが変わってしまった。父の笑顔も、兄の約束も、姉の言葉も、まるで最初からなかったことのように、跡形もなく消えてしまった。
屋敷が見えてくる。いつもならあの門をくぐるたびに安堵した。ここが自分の帰る場所だと、疑ったことは一度もなかった。
でも、今は違う。あの門の向こうに、もう自分の居場所はないのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥が氷を押し当てられたように冷たくなっていくのを感じた。馬車が停まる。誰も僕に手を貸してくれなかった。
僕は一人で馬車を降りた。夕暮れの光が長い影を地面に落としている。その影はいつもよりずっと小さく、頼りなく見えた。
ーーこれから、僕は、どうなるんだろう。
答えは誰も教えてくれなかった。ただ、屋敷の門をくぐるその一歩がこれまでの人生で一番重く感じられた。
僕はまだ、六歳だった。




