第一話 産声
どこか遠くで、誰かの泣き声がする。
小さく、けれど確かにこの世界に生まれ落ちたことを告げるような声であった。
「まあ……なんて元気な産声でしょう」
優しい女性の声が続く。
柔らかな布の感触。鼻をくすぐる、どこか甘い匂い。眩しい光。知らない天井。
けれど、不思議と怖くはなかった。むしろ、この光景を僕は知っている気がした。
ああ。これはきっともう少し先の話だ。
僕にはまだ、思い出さなければならないことがある。
――――――――――――――――――――――――
いつもの朝。
校門へ向かう道には、いつものように生徒たちの声が溢れていた。
「おはよう!」
「昨日の宿題やった?」
「いや、まったく!なんとかなるかなって」
「居残り確定だな!」
「昨日のドラマの最終回最高だったよね!!」
「おかげで寝不足だよ〜」
笑い声。
くだらない話。
眠そうな顔。
誰にでもあるありふれた朝。僕はその中を一人で歩いていた。
クラス替えで最初のタイミングを逃すなんてよくある。だから誰とも馴染めていない。
などと言う、可愛い理由ではない。
僕がこの学校で一人なのは、もっとずっと前からだ。
なぜ、こうなってしまったのか。
僕に両親がいないから?
施設育ちで貧しいから?
クラスメイトを庇うようなマネをしてしまったから?
それとも、もっと別の理由があるのか。
毎日のように考える。
理由なんて、たぶん一つじゃない。
最初は何かきっかけがあったのかもしれない。でも、きっかけなんてとうの昔に消えてしまった。
今ではただ、そういうもの。
それだけだった。
思案に耽っているうちに、いつもの見慣れた校舎が見えてきた。
灰色の壁。
色褪せた校章。
朝日を浴びても、どこか陰った印象を拭えない建物。
「今日も校舎はあるか」
と思わず呟く。
「……なくならないかな」
自分でも馬鹿みたいだと思う。
そんな都合のいいこと、一度だって起きたことはない。
校門をくぐると何人かの生徒とすれ違った。
目が合けれど、すぐに逸らされた。
「……」
僕も何も言わなかった。
いつものことだ。
上履きに履き替えるため、靴箱の前まで来て扉を開ける。
――ない。
今日もまた、上履きがない。
「……今日はどこだろう」
驚きはなかった。最初の頃は、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。
誰かに見られていないか確認して、泣きそうになりながら探した。
でも、今は違う。上履きがない。なら、探せばいい。それだけだ。
校舎裏のゴミ箱。
掃除用具入れ。
階段の踊り場。
トイレの個室。
毎日違う場所に隠される上履きを探すのも、いつしか朝の日課になっていた。
廊下を歩く生徒たちは、僕がしゃがみ込んでいても気に留めない。
一瞬こちらを見る者もいる。けれど、目が合うとすぐに逸らす。関わりたくない。そういう顔だった。
「また朝から探してるよ」
「毎日探してよく飽きないな」
「そんなに汚い上履きが大事?」
やがて、トイレの一番奥の個室。
便器の横に、泥だらけの上履きが置かれているのを見つけた。
「……見つけた」
水浸しになった床から拾い上げる。泥がついている。誰かがわざと水をかけたのだろう。
僕はそれを軽く振って、足に履いた。ぬるりとした感触が足の裏に広がる。けれど、顔をしかめることもなかった。汚れなんて気にならない。
制服も
教科書も
鞄も
もう十分すぎるほど汚れている。
教室へ向かおうとした、そのときだった。
「おはよう! 日向くん」
明るい声。反射的に顔を上げる。
次の瞬間――
ドンッ!
「……っ!」
腹に鈍い衝撃が走った。息が詰まる。
身体が少し後ろへよろめいた。
「ははっ!」
笑い声。
蹴った男子生徒が、何事もなかったように友達のところへ戻っていく。
「おいおい、ほどほどにしておけよ」
「別にいいだろ」
「まあ、こいつがどうなろうが誰も気にしないか」
そんな会話が聞こえた。
廊下を歩いていた生徒たちが、こちらを見る。
一瞬だけ。
そして、何も見なかったように通り過ぎていく。
「……。」
僕は何も言わない。
言ったところで、どうせ何も変わらない。
蹴られた衝撃で落としてしまった鞄を拾おうとしたとき、一人の女子生徒が近づいてきた。
「あ、鞄落ちてるよ」
しゃがんで、僕の鞄を拾い上げる。
「ごめん。ありがとう」
そう言おうとした。
けれど。
「これ、いらないよね?」
「……え?」
女子生徒は笑った。
そして――
窓の外へ、鞄を放り投げた。
「え……」
鞄が宙を舞う。
中から教科書やノートが飛び出していく。
バラバラになったそれらは、校庭の隅にある水たまりへ次々と落ちていった。
バシャッ。バシャッ。
水が跳ねる。
「こんな汚いバッグ、持ってるなんてウケる」
「あはは!」
「教科書まで飛んでったじゃん」
周囲から笑い声が起こる。
誰かがスマートフォンを取り出した。画面をこちらへ向けている。撮っているのだろう。
でも、確認する気にはなれなかった。僕は窓の外を見つめる。
水たまりに浮かんだノート。
泥のついた教科書。
「……」
何も言わない。抵抗しない。抵抗すれば、さらに酷くなる。それを僕は知っている。
「ねえ」
女子生徒がつまらなそうに言った。
「なんか言えば?」
「……」
「いつも黙ってるじゃん」
周囲から小さな笑い声が漏れる。
「ねえ、つまんなーい」
僕の鞄を窓から投げた女子生徒が言った。
「ハッ……。」
男子生徒が鼻で笑う。
「行こうぜ」
彼らはそのまま歩いていった。
笑い声が遠ざかる。やがて廊下には、また普通の朝が戻ってきた。
僕は一人で校庭へ向かった。水たまりに落ちた教科書を拾う。表紙には靴跡がくっきりと残っていた。袖で軽く拭う。
落書きされたページ。
濡れて波打ったノート。
破れたプリント。
それらを一つずつ拾い集める。
「……まだ使える」
自分に言い聞かせるように呟いた。
*
教室の扉を開ける。一瞬だけ空気が止まった。
「おい、来たぞ」
「今日もいる」
「メンタル強すぎだろ」
クスクスと笑う声。
誰かがこちらを見て、隣の生徒へ何かを囁く。その生徒が吹き出す。
僕の机は、窓際へ倒されていた。
椅子は教室の隅。
机の表面には、油性ペンで書かれた文字。
消そうとしても消えない。
僕が机の中に教科書などをしまおうとすると何かに当たった。机の中を覗くと生ゴミ、飲み終わった牛乳パック、濡れた紙くずなどが散乱されており、教科書には牛乳が染み込んでいる。
昨日までテスト勉強に使っていたノートは、細かく裂かれていた。ページを一枚拾う。
自分の字が、水に滲んで読めなくなっている。
「……」
何も感じない。
感じなくなった。
それだけだ。
倒れた机を起こす。
椅子を戻す。
机の中のゴミを袋に入れる。
誰かがこちらを見て笑っている。
それでも、僕は何も言わない。
やがて担任が教室へ入ってきた。
「席につけー」
教師が教壇に立つ。
教室を一度見回す。
倒されていた机。
汚れた制服。
散らばったゴミ。
笑いを堪える生徒たち。
全部、見えているはずだった。
ほんの数秒の間、担任の視線が僕のところで止まる。けれど、
「柊」
「……はい」
「席につけ」
「……はい」
それだけだった。
教師は何事もなかったように黒板へ向き直った。チョークが黒板を擦る音がする。
カッ、カッ、と乾いた音。僕は自分の席に座った。
授業が始まる。隣の生徒は、机をほんの少しだけ僕から遠ざけた。
前の席の生徒は、一度も振り返らない。
先生の声だけが、やけに平坦に教室へ響いている。僕は黒板を見つめ、文字を書き写す。
濡れて読みにくくなった教科書を開く。
いつも通り。
それだけだった。
休み時間になれば、また誰かの笑い声がする。
誰かの視線。
誰かの囁き。
全部、僕には向けられていないふりをして。
確かに、僕へ向けられていた。
でも、もう気にしない。
気にしたところで、何も変わらない。
そう思うことにしていた。
*
昼休み。
僕は屋上へ続く階段にいた。
屋上の扉には鍵がかかっているため、誰も来ようとしない。僕以外は。
階段の踊り場。
そこが、僕にとって唯一の居場所だった。
窓から差し込む光が、階段の床を照らしている。
僕はコンビニで買ったパンを取り出した。
百円。
今日の昼食。
包装を開こうとした、その瞬間。
「昼飯うまそうじゃん」
顔を上げる。
いつの間にか、数人の男子生徒が階段の下に立っていた。
「……」
「日向くん?その美味しそうなパン俺が貰ってもいい?」
返事をする前に、パンを奪われる。
「おい、これ俺が食っていいか?」
「いいんじゃね?」
「じゃあもらい」
包装を破る音。
僕は黙って見ていた。
別の男子が床に置いていた缶コーヒーを手に取った。
「これもあるよ」
プシュッ。
蓋を開ける。飲むのかと思った。
でも。
「ほら」
缶が傾く。
茶色い液体が床へ流れ落ちる。
びしゃびしゃ、と音を立てながら広がっていく。
僕のズボンにも跳ねた。
「うわ、汚ね」
「あはは!」
「ほら拭けよ」
男子が僕の制服を指差す。
「そのボロボロの雑巾で」
周囲から笑い声が上がった。
僕は窓を見つめた。その先の外には、青い空が広がっていた。
雲ひとつない。
それが、今の自分とはあまりにもかけ離れていて。少しだけ、おかしくなった。
――もう、慣れてしまった。
そう思う。
痛みも。
悔しさも。
悲しさも。
いつの間にか、心の奥へ仕舞い込んでしまった。どこへ仕舞ったのかも分からない。
取り出し方すら、もう忘れてしまったのかもしれない。
それでも。
僕は空を見上げた。
空は青かった。
ただ、それだけだった。
*
放課後。
校門を出る。
誰かと一緒に帰ることはない。いつものように一人で見慣れた街を歩く。夕暮れの街は少しずつ赤く染まっていた。
昼間の喧騒が嘘のように、どこか穏やかだった。
交差点に差し掛かる。
信号は赤。
僕は足を止めた。
隣には、5歳くらいの男の子と母親がいた。
「ほら、信号が青になるまで待とうね」
「うん!」
男の子が笑う。
その笑顔を見て、僕は何となく目を逸らした。
眩しかったからだ。
物思いに耽っているその瞬間だった。
「待って!」
と母親の声で我が身にかえり振り返った。
男の子が母親の手を振りほどいていて走っていた。
「ぼくの!」
男の子の視線の先。
道路の向こうへ転がっていく、小さなボール。
「あっ――!」
母親が手を伸ばす。
届かない。
男の子は、そのまま車道へ飛び出した。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
空気が一瞬で変わった。歩いていた人たちが足を止める。
「そっちはダメ」
「誰か止めて!」
「危ない!」
声だけが飛び交う。
けれど、誰も動けない。
突然の出来事に、身体が固まっている。
僕も同じだった。
足が止まる。
怖い。
逃げたい。
そう思った。
そのとき。
こちらへ向かってくる車が見えた。
クラクションが鳴り響く。
――プァァァァンッ!
「戻ってきて!」
母親の叫び声。
男の子は立ち尽くしている。
泣きそうな顔。
震える小さな身体。
僕は思った。
――誰か、助けて。
でも。
誰も動かない。
気づけば。
僕は走っていた。
「っ……!」
鞄が肩からずり落ちる。
靴底がアスファルトを蹴る。
「やめろ!」
「間に合わない!」
周囲から悲鳴が上がる。
それでも足は止まらない。
あと少し。
男の子まで、あと少し。
手を伸ばす。
「こっちへ!」
男の子の目が大きく開く。
僕の手が、その小さな腕を掴んで男の子を引き寄せた。
――間に合った。
そう思った。
次の瞬間。
強烈な衝撃が身体全体を突き抜けた。
視界が大きく揺れる。
身体が宙へ浮いたような感覚。
音が遠ざかる。
「――きゃああああ!」
「救急車!」
「誰か救急車を呼んで!」
「男の子は!?」
「大丈夫! 男の子は生きてる!」
「この子が助けたんです!」
遠くから、いくつもの声が聞こえる。
誰かが駆け寄ってくる。
母親の泣き声。
「大丈夫!?」
「お願い、目を開けて!」
「この子が……この子が助けてくれたんです!」
僕は、ゆっくり目を開けた。
視界の端に、母親が見える。
その腕の中には、さっきの男の子。
泣いている。
でも、生きている。
それを確認して、僕は少しだけ安心した。
「よかった……」
声になったかどうかは分からない。
身体に力が入らない。
痛いはずなのに、不思議と痛みは遠かった。
周囲では、誰かが電話をしている。
誰かが僕の名前を尋ねている。
誰かが「動かさないほうがいい」と叫んでいる。
そんな声を聞きながら、僕は空を見上げた。
夕焼けが、やけに綺麗だった。
オレンジ色の空。
電線の向こうに広がる雲。
学校から帰るだけの、いつもの一日だった。
それなのに。
今日だけは、少し違って見えた。
自分のことなんて、ずっとどうでもよかった。
何をされても。
何を言われても。
痛くても。
悲しくても。
ただ耐えていれば、一日は終わる。
そう思っていた。
でも。
誰かのためなら。
僕の身体は、勝手に動いた。
それがおかしくて。
少しだけ笑った。
――ああ、そうか。
僕はまだ、誰かのために動ける人間だったんだ。
そう思った瞬間。
長い間張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。
視界が少しずつ白くなる。
「君! 聞こえるか!」
「目を開けて!」
「もうすぐ救急車が来るから!」
声が遠くなる。
僕は最後に、男の子を見た。
助かった嬉しさか、怖さか、痛みかわからないが、母親に抱きしめられながら泣いている。
僕は、それを見つめた。
――よかった。
この子が生きているなら、それでいい。
柊日向として最後に抱いた感情は、後悔ではなかった。
不思議なくらい穏やかな、安堵だった。
*
気がつくと、僕は光の中に立っていた。
白い。
どこまでも白い。
上下も左右も分からない。
ただ、自分だけがそこに立っている。
目の前には、輪郭さえおぼろげな、けれど確かに人の形をした何かがいた。
顔はよく見えない。
けれど、声だけははっきりと聞こえた。
「――あなたを、ずっと見ていました」
女性の声だった。
優しい。
けれど、どこか寂しさを含んでいる。
「柊日向」
名前を呼ばれた。
「あなたは、その優しさのまま死んでしまうには、あまりに惜しい人でした」
「僕は……死んだんですね」
自分でも驚くほど、その声は静かだった。
悲しくない。
怖くもない。
ただ、事実を確認しているだけだった。
「ええ」
女性は答える。
「けれど、終わりにはしません」
「……え?」
「もし良ければ、私に力を貸してほしいのです」
女性は静かに続けた。
剣と魔法の世界。
そこには、この世界とは違う理が存在すること。
そして、やがて訪れる大きな災厄によって、その世界そのものが滅びようとしていること。
言葉の一つひとつが、不思議と胸の奥へ染み込んでいく。
「世界を、救ってほしい」
その言葉を口にした瞬間。
女性の表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
まるで何かを堪えるように。
僕は、それを見逃さなかった。
「……あなたは、何を知っているんですか?」
問いかける。
けれど、女性は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「あなたに、力を託します」
白い光が、彼女の手から溢れ出す。
「どうか――」
その先の言葉は、聞き取れなかった。
ただ、彼女の声の奥に、ほんの少しだけ震えが混じっていた。
悲しみなのか。
後悔なのか。
それとも、別の何かなのか。
確かめる術はなかった。
光が、いっそう強くなる。
視界のすべてが白く染まっていく。
身体の輪郭が溶けていくような、不思議な感覚。
怖くはなかった。
むしろ。
長い眠りへ落ちていく前のような、静かな心地よさがあった。
*
「――っ、産声を上げましたわ!」
遠くで声がする。
「元気な男の子です!」
温かい腕に抱かれている。
眩しい光。
知らない声。
知らない匂い。
周囲から、いくつもの安堵の吐息が聞こえる。
「よかった……」
「本当に元気な子だ」
「まあ、なんて可愛らしい……」
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
僕には、その意味が分からなかった。
ただ。
温かかった。
これまで感じたことのないほど、温かかった。
身体は小さい。
声も出せない。
何も知らない。
けれど。
僕には、確かに一つだけ分かることがあった。
――僕は、生きている。
これが僕の二度目の人生の、最初の記憶だった。




