第十六話 積み重ねた力
初めてのダンジョン探索から数日後、僕は再びあの石造りの入口へ向かっていた。
前回の探索で気づいたことを、宿に戻ってから何度も整理した。通路の分かれ道。魔物と遭遇した場所。帰還にかかった時間。忘れないうちに地図へ書き込み、次に必要なものを考えた。携帯食料は予定より少し多めに。水筒も一つ増やした。傷薬の残りを確認し、地図には前回つけた目印を書き写してある。準備に時間はかかったけれど、無駄ではなかったと思う。
「……今日は、もう少し奥まで」
自分に言い聞かせるように呟き、僕は入口をくぐった。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。外の陽光はすぐに遠ざかり、周囲を満たすのは壁に埋め込まれた鉱石の淡い光だけになった。足を踏み出すたび、靴底が石の床を叩く音が響く。
――コツ、コツ。
その音が、少し遅れて暗がりの向こうから返ってくる。何度経験しても、慣れないものはある。それでも、前回のように一歩進むたびに立ち止まることはなかった。
分かれ道に差し掛かる。僕は地図を取り出し、壁に残した小さな印と見比べた。
「……こっちだ」
迷うことなく進む。以前なら、どちらへ向かうべきか分からず、不安ばかりが膨らんでいたはずだ。覚えた知識が自分の判断を支えてくれている。そのことが少し嬉しかった。
*
しばらく進むと、通路の先に開けた空間が見えてきた。
壁際には崩れた石片が散らばり、天井の一部には細い亀裂が走っている。かつて何かが置かれていたのか、壁には四角い窪みがいくつも並んでいた。何のための場所なのかは分からない。ただ、自然にできた洞窟とは違う。誰かが石を積み、形を整えて造った場所なのだということだけは分かった。
僕は周囲を見渡してから、足元に注意を向けた。そのときだった。通路の奥から、低い唸り声が聞こえた。続いて、硬いものが石を擦る音。
姿を現したのは、三体のゴブリンだった。手にはそれぞれ、棍棒や欠けた刃物を持っている。
「……三体か」
数だけを見れば、これまでにも経験したことのある相手だった。けれど、ここは森とは違う。背後に広い逃げ道があるとは限らない。無理に攻めれば、狭い通路で囲まれる危険もある。
僕はすぐには動かなかった。三体の位置。通路の幅。自分が後退できる距離。頭の中で、順番に確認していく。やがて、先頭の一体が棍棒を振り上げた。
「……まずは、一体」
僕はわざと数歩だけ後ろへ下がった。ゴブリンは獲物を追うように、唸り声を上げて突っ込んでくる。狙いどおり、後続との距離が開いた。僕は通路の角へ身を寄せ、棍棒が振り下ろされる瞬間に横へ踏み出した。鈍い音が響く。棍棒が石壁を叩いた。その隙に懐へ入り、必要な分だけ闇を纏わせた腕を叩き込む。ゴブリンの身体が崩れ落ちた。
「……よし」
すぐに残る二体へ視線を戻す。だが、片方が仲間の死体を回り込むように動き、予想よりも速く距離を詰めてきた。
「っ……!」
咄嗟に身を引いたものの、刃先が服の裾を掠めた。あと少し遅れていたら、身体に届いていたかもしれない。心臓が強く跳ねる。
――まだ、油断できない。
僕は反射的に闇を広げかけて、寸前で踏みとどまった。ここで力を無駄に使えば、後が苦しくなる。必要なのは、目の前の一体を確実に止めることだ。僕は通路の幅を利用し、二体が同時に飛び込めない位置へ移動した。一体目の攻撃を避け、体勢を崩したところへ反撃する。もう一体が追いすがってきたが、焦って正面から受け止めることはしなかった。相手の動きを見て、攻撃の届かない位置へ退き、隙を待つ。やがて、三体目も石床へ倒れた。
静寂が戻る。僕はしばらく、その場から動かなかった。呼吸を整えながら、服の裾についた傷を確かめる。大した傷ではない。それでも、先ほどの刃先が頭から離れなかった。
「……まだまだ、だな」
勝てたことは嬉しい。でも、ただ勝てばいいわけじゃない。相手の動きを見誤れば、いつか取り返しのつかないことになる。そのことを、改めて思い知らされた。
倒した魔物から魔石を回収する。小さな石の中で、淡い光が揺れていた。袋へしまうと、かすかな音が鳴る。前回よりも、確かな手際で作業を終えられた。
「……少しは、できるようになったかな」
そう呟いて、僕は再び奥へと歩き出した。
*
前回引き返した場所を越えると、見覚えのない通路が続いていた。壁の石材はところどころ欠け、床には細かな砂が積もっている。天井から垂れ下がる石の突起も、進むにつれて少しずつ増えていた。どこかで水が滴る音がする。音のする方向を探してみたけれど、水源らしいものは見当たらなかった。
僕は無理に探すことをやめ、地図へ通路の形を書き加えた。道幅。分かれ道の数。目印になる壁の傷。分かることを、一つずつ記録していく。
途中、小さな部屋で別の魔物とも遭遇した。以前なら、闇の力を腕全体に纏わせ、力任せに押し切ろうとしていたかもしれない。今は違う。相手の動きを見て、必要な瞬間にだけ力を使う。大きな力を振るうよりも、無駄を減らした方が戦いやすい場面もある。何度かの戦闘を経ても、以前ほど息は乱れなかった。もちろん、疲れがないわけではない。腕には重さが残り、額には薄く汗が浮かんでいた。それでも、まだ自分で判断できる。
「……この力、ちゃんと自分のものになってきてる」
誰に言うでもなく、僕はそう呟いた。
災厄と呼ばれた力。かつては、自分の中にあることさえ恐ろしかった。けれど今は、どう使うかを自分で考えられる。少しずつでも、自分の意思で扱えるようになっている。それは、確かな変化だった。
*
さらに奥へ進んだところで、僕はふと足を止めた。
床の一部に、妙なものがあった。石と石の継ぎ目に沿って、細い黒ずみが伸びている。
「……なんだ、これ」
しゃがみ込み、目を凝らす。最初は、ただの汚れに見えた。長い年月の間に染み込んだ土か、何かが付着した跡。そう考えれば、特に不思議ではない。けれど、周囲の石とは少し違っていた。黒ずみは表面に付着しているというより、石の奥に染み込んでいるように見える。細い線は継ぎ目に沿って伸び、ところどころで枝分かれしていた。
以前、別の場所で似たものを見た気がする。ただ、どこで見たのか、はっきりとは思い出せなかった。
僕はしばらく、その黒い線を見つめていた。指を伸ばせば、触れられる距離だった。確かめてみたい。そんな気持ちが、わずかに湧き上がる。けれど――。僕は伸ばしかけた手を止めた。今は探索の途中だ。正体の分からないものを、何の準備もなく調べる必要はない。そもそも、何か危険があったとしても、今の僕には判断できない。
「……また今度、確かめよう」
そう呟き、地図を取り出した。黒ずみを見つけた場所に、小さな印をつける。それから、来た道と周囲の通路も確認した。帰り道は分かっている。今の体力なら、入口まで戻ることもできるはずだ。それでも、無理に奥へ進むつもりはなかった。今日の目的は、前回より先へ進み、経験を積むこと。それは、もう十分に果たせている。
僕は最後にもう一度だけ黒ずみを見てから、来た道を戻り始めた。
*
帰り道では、行きに記録した目印を一つずつ確かめた。分かれ道で迷うことはなかった。魔物と遭遇することもなく、僕は自分の足で、確実に入口へ近づいていった。やがて、通路の向こうに淡い光が見えた。外から差し込む陽の光だ。その明るさを目にした瞬間、知らず知らずのうちに張り詰めていた肩の力が抜けた。
入口を抜け、僕は大きく息を吸った。冷たい石の匂いに慣れていたせいか、外の空気がいつもより澄んで感じられる。僕は魔石の入った袋を確かめた。前回よりも多い。それだけではない。道を覚え、魔物への対処を学び、無理をしない判断もできた。すべてが大きな成果というわけではない。それでも、一つずつ積み重ねてきたものが、確かに自分の力になっていた。
僕は一度だけ、振り返った。石造りの入口。その奥へと続く暗い通路。今日見つけた黒ずみのことが、頭の片隅に残っていた。何だったのかは分からない。今はまだ、考えても答えは出ないだろう。だからこそ、次に来たときは、今日よりも多くのことを知っていたい。もっと奥へ進めるように。もっと多くのことを、自分で判断できるように。
僕は魔石の入った袋を握りしめ、陽の光の下を歩き出した。
――次は、もっと奥へ。
そう思いながら。




