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第十七話 広がる世界

 ダンジョンへ向かう道を歩きながら、僕は手元の地図を確認していた。


 前回の探索で書き足した通路や分かれ道。目印となる壁の傷や、魔物と遭遇した場所。記録はまだ不完全だけれど、少しずつ、この場所の形が分かってきている。


「……今日は、もう少し先まで行けそうだ」


 そう呟き、僕は地図をしまった。


 以前は、知らない場所へ足を踏み入れること自体が怖かった。どこへ進めばいいのか分からない。何が現れるのかも分からない。自分の判断一つで、命を落とすかもしれない。


 今だってその危険がなくなったわけではない。ただ、何も分からないまま立ち止まるのではなく、分かることを一つずつ増やしていけばいい。それが、少しずつ分かってきた。


 石造りの入口が見えてくる。僕は荷物を背負い直し、その暗がりへと足を踏み入れた。


 *


 内部の空気は、今日もひんやりとしていた。壁に埋め込まれた鉱石が淡い光を放ち、石造りの通路をぼんやりと照らしている。


 僕は慣れた道を進み、前回の探索を終えた場所まで辿り着いた。そこから先は、まだ知らない道だ。地図を取り出し、最後に記した印を確かめる。


「……よし」


 僕はその先へと進んだ。


 通路は緩やかに右へ曲がり、やがて二つに分かれていた。左はこれまでと同じような石造りの通路。右は少し下り坂になっている。


 どちらへ進むべきか、すぐには判断できなかった。以前なら、何となく気になった方へ進んでいたかもしれない。今は、立ち止まって周囲を観察する。壁に目印を残し、分かれ道の形を地図に書き込む。足元には細かな砂が積もっていたが、どちらの道にも新しい足跡らしきものは見当たらない。


 僕は少し考えてから左の通路を選んだ。まずは、帰り道を確実に把握できる範囲を広げる。行き止まりだったとしても、道の形を知ることは無駄ではない。そう考えながら進んでいくと、やがて通路の先に小さな部屋が現れた。


 *


 部屋の中央には、腰ほどの高さがある石の台が置かれていた。表面には細かな傷が刻まれ、端の部分は欠けている。周囲には崩れた石片が散らばり、壁の一部も大きく崩れていた。


 魔物の姿はない。僕は部屋の入口で足を止め、しばらく内部を観察した。


「……何に使っていたんだろう」


 石の台に近づいてみる。上面には、円形の窪みがあった。何かを置くためのものだったのかもしれない。けれど、今は何も残っていなかった。周囲の壁にも、同じような円形の模様がいくつか刻まれている。文字なのか、装飾なのか。それとも、何か別の意味があるのか。僕には分からなかった。


 ただ、ここが単なる洞窟ではないことは、改めて感じられた。誰かが石を積み通路を造り、部屋を整えた。それなのに、今は誰もいない。何のために造られたのかも、いつからここにあるのかも分からない。そんな場所が、地上のすぐ下に広がっている。少し不思議な気持ちになった。


 僕は台の周囲を確認し、地図に部屋の形を書き足した。円形の台があることも、簡単に記録しておく。それ以上は調べず、部屋を後にした。今の僕に分からないことを、無理に理解しようとしても仕方がない。いつか知識が増えたとき、またここを訪れればいい。


 *


 部屋を出てしばらく進むと、前方からかすかな物音が聞こえてきた。石を踏むような音。僕は足を止め、剣に手をかけた。


 音は一度途切れ、少し間を置いて再び聞こえてくる。


 ――一体じゃない。


 複数の足音が、ゆっくりとこちらへ近づいていた。僕は通路の脇に身を寄せ、壁の陰から様子をうかがった。


 やがて姿を現したのは、二体の魔物だった。ゴブリンとは違う。四つ足で歩く、犬に似た姿。身体は灰色の硬い毛に覆われ、口元からは鋭い牙が覗いている。以前、森で遭遇した灰牙狼を思い出した。ただ、目の前の魔物はそれよりも小柄で、身体のつくりも少し違って見える。


 僕はすぐに飛び出さず、二体の動きを観察した。一体が床の匂いを嗅ぐように鼻先を動かし、もう一体は周囲を警戒するように首を巡らせている。動きに無駄がない。ゴブリンのように、こちらへ気づけば勢い任せに突っ込んでくる相手とは違うかもしれない。


 僕は周囲を見た。通路は狭い。後ろには、さっき通ってきた道がある。無理に二体を同時に相手にする必要はなかった。


 片方が少し離れた瞬間、僕は壁の陰から飛び出した。狙うのは、後ろにいた一体。闇を腕に集中させ、相手が振り向くよりも早く踏み込む。手応えがあった。魔物は短く鳴き声を上げ、その場に崩れ落ちた。


 だが、もう一体はすぐにこちらへ向き直った。低い唸り声。次の瞬間、床を蹴って飛びかかってきた。


「っ!」


 僕は横へ跳んだ。牙が、さっきまで僕のいた場所を通り過ぎる。着地した魔物はすぐに体勢を立て直し、再びこちらへ向き直った。


 速い。正面から迎え撃てば、今度は避けきれないかもしれない。僕は距離を取りながら、相手の動きを観察した。飛びかかる前に、わずかに前脚へ体重がかかる。ほんの一瞬の変化。それに気づいたとき、魔物が再び地面を蹴った。


 僕はぎりぎりまで引きつけてから身をかわした。爪が服を掠める。そのまま通り過ぎようとする身体へ、闇を集中させた一撃を叩き込んだ。魔物が床に倒れる。


 僕はすぐに追撃せず、しばらく様子を見た。動かないことを確認してから、ようやく剣を下ろす。


「……危なかった」


 息を整えながら、服についた埃を払った。相手の動きが分からなければ、今の攻撃を避けることはできなかったかもしれない。


 力があれば勝てる。以前は、どこかでそう考えていた。けれど実際には、相手をよく見ることも、立つ場所を選ぶことも、同じくらい大切なのだ。


 僕は倒した魔物から魔石を回収した。片方の魔石は、これまで手に入れたものより少し大きかった。袋へしまいながら、僕は地図に遭遇した場所と魔物の特徴を書き加えた。次に同じ魔物と出会ったとき、今日の経験が役に立つかもしれない。そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。


 *


 その後も、僕は探索を続けた。新しい通路を見つけては地図に記録し、分かれ道では周囲を確認して進む。魔物と遭遇したときは、無理に戦わず、こちらに有利な場所を選ぶようにした。


 すべてが思いどおりに進んだわけではない。行き止まりに突き当たることもあったし、遠回りをしてしまった場所もある。けれど、以前のように焦ることはなかった。道を間違えたなら、戻ればいい。判断に迷ったなら、立ち止まって考えればいい。分からないことを、分からないままにしておかない。そうやって少しずつ経験を積んでいけば、いつか今より先へ進めるはずだ。


 やがて、僕は通路の先に小さな空間を見つけた。壁際には崩れた石材が積み重なり、床の一部が砂に覆われている。


 何気なく周囲を見渡したとき、壁の低い位置に、細い黒い筋が走っているのが目に入った。


 僕は足を止めた。黒ずみ。そう呼ぶしかない、曖昧な跡だった。以前、別の場所で見たものと似ているようにも思えた。けれど、ここからではよく分からない。


 僕は少し離れた場所から目を凝らした。表面についた汚れなのか。それとも、石そのものが変色しているのか。判断できなかった。


 触れて確かめることも考えたが、すぐに思い直した。今は探索の途中だ。周囲に危険がないかも分からない場所で、正体の分からないものに不用意に触れる必要はない。


 僕は地図を取り出し、その場所に小さな印をつけた。それから、来た道と周囲の通路を確認する。黒ずみのことは気になる。けれど、気になるものをすべてその場で調べていたら、いくら時間があっても足りない。


「……また今度だ」


 そう呟き、僕はその場を離れた。振り返ることはしなかった。


 *


 帰り道は、思っていたよりも順調だった。記録した目印を確かめながら、分かれ道を一つずつ戻っていく。途中で一度だけ道を間違えかけたが、壁に残した印を見つけて、すぐに気づくことができた。


 前回なら、気づくまでにもっと時間がかかっていたかもしれない。小さなことだ。けれど、こうした小さな積み重ねが、いつか大きな差になるのだと思う。


 やがて、通路の向こうに外の光が見えた。僕は最後の分かれ道を抜け、石造りの入口をくぐった。陽の光が、少し眩しかった。外の空気を胸いっぱいに吸い込む。ダンジョンの中では気づかなかった疲れが、少しずつ身体に戻ってきた。腕は重く、足にも疲労が残っている。


 それでも、無事に帰ってこられた。僕は魔石の入った袋を確かめた。今日の成果は、決して悪くない。新しい魔物の特徴を知り、知らなかった通路を地図に記録し、今までよりも奥へ進むことができた。何より、帰り道を自分の判断で見つけられたことが嬉しかった。


 かつての僕は、何をするにも誰かの判断に頼らなければならないと思っていた。けれど、今は違う。自分で考え、自分で選び、その結果を自分で受け止める。その繰り返しが、少しずつ自分を変えてくれている。


「……明日も、頑張ろう」


 小さく呟いて僕は街へ続く道を歩き始めた。次に来るときは、今日よりも先へ進みたい。まだ知らない通路も、見たことのない魔物も、きっとたくさんある。このダンジョンが、どこまで続いているのかは分からない。だからこそ、確かめてみたいと思った。自分の足で、一歩ずつ。


 *


 その日の夜、宿に戻った僕は机の上に地図を広げていた。新しく記録した通路を確認し、魔物と遭遇した場所を書き足す。今日の探索で分かったことを整理しておけば、次に役立つはずだ。


 最後に黒ずみを見つけた場所へ目を落とした。小さな印が一つ。それだけでは、何も分からない。あの跡が何なのか。なぜ、あの場所にあったのか。今の僕には、答えを出せなかった。


 僕は地図を折り畳み、荷物の横へ置いた。分からないことは、まだたくさんある。けれど、すべてを一度に知る必要はない。まずは、次の探索に備えよう。


 そう考えて、僕は明日の準備を始めた。

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