第十二話 撤退という選択
木々の間をまた一つ、影が横切った。
「……嘘だろ」
数えるだけで、十五〜二十体はいる。この規模の群れが、初心者向けの試験地に現れるなど聞いたことがなかった。
コボルトの群れだった。数匹程度なら、今の僕でも十分に対処できる。
けれど、これほどの数となると話は違う。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。以前の僕なら、目の前の敵をどうにかすることしか考えられなかっただろう。
でも、今は違う。周囲を確認する。自分の位置。逃げ道。地形。
そして――他の受験者の気配。
少し離れた場所から悲鳴に近い声が聞こえた。他の受験者の一人が、群れの一部に見つかったらしい。
「……」
考える時間は短かった。ここで無理に戦えば、体力を消耗し、逃げ場を失う。
数の多さは、単純な力押しでどうにかなるものではない。
――ここで戦う必要はない。
その判断は、すぐに固まった。
「みんな、こっちへ!」
僕は声の聞こえた方向へ向かって叫んだ。
少し離れた場所にいた受験者たちが、驚いたようにこちらを見る。
「な、なんだよあの数……!」
「逃げるぞ! こっちだ!」
僕は地図を頭の中で思い描きながら、泉とは別の方向、試験開始地点に近い開けた場所へ向かって走り出した。
他の受験者たちも戸惑いながらもついてくる。
*
しばらく走ったところで、背後から追ってくる気配に気づいた。
「……っ、追ってきてる!」
誰かの声が上がる。振り返ると、群れの一部――五体ほどがこちらに向かって迫っていた。
このままでは、追いつかれる。他の受験者を見捨てることもできない。
「僕が食い止めます! 先に行ってください!」
「え、でも……」
「早く!」
迷う受験者たちを促し、僕は足を止めて振り返った。迫るコボルトたちを見据える。
右手に意識を集中させた。以前のように腕全体を覆う闇は必要ない。
必要な場所へ。必要な分だけ。
「……一体ずつ、確実に」
先頭のコボルトが飛びかかってくる。
身体を横へずらす。その勢いを利用し、黒い霧を纏わせた右手を叩き込む。
「――ッ!」
コボルトが地面へ転がった。
すぐに次が迫る。棍棒を振り上げた瞬間、僕は一歩下がった。空振りした棍棒が地面を叩く。
その隙に懐へ入り、右手を突き出した。黒い霧が一瞬だけ濃くなる。
コボルトが崩れ落ちた。
「……あと三体!」
残りのコボルトが横から飛び込んでくる。避けきれない。咄嗟に腕を上げる。棍棒が腕をかすめた。
「――っ!」
痛みが走る。それでも、足を止めない。指先へ意識を集中する。黒い霧を細く絞り、その一点へ力を集める。
「――これで!」
後ろを振り向き、指先に集めた力を三体に連続で当てていく。
三体のコボルトが地面へ倒れた。
「……はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、周囲を確認する。右腕が痛む。身体も重い。たった五体。それでも、かなり体力を持っていかれた。
そして――森の奥から、枝を踏み折る音が聞こえる。
一つや二つどころではない。
……それ以上。
「……まだいる」
倒した五体を見下ろす。ここで戦い続ければ、いずれ力が尽きる。
そして、群れに囲まれれば逃げることもできなくなる。
「……駄目だ」
僕は拳を握る。勝てるかどうかじゃない。勝つ必要がない。
試験の目的は、目の前の魔物をすべて倒すことではない。
生きて帰ること。
そして――与えられた任務を達成することだ。
「……撤退する」
僕は踵を返した。先に行った受験者たちの後を追い、走り出す。
背後から、コボルトたちの足音が響く。どんどん近づいてくる。
「……急がないと」
木々の間を抜ける。講習で覚えた目印を探す。大きな岩。倒れた木。そこを右へ。
「……こっちだ」
地図と景色が重なる。間違っていない。少し先に、森が開けている。
――もう少し。
そう思った瞬間だった。
「……え?」
前方から、複数の足音が聞こえた。僕は足を止める。
木々の向こう。先に逃げたはずの受験者たちが、こちらへ戻ってきていた。
「ノクト!」
「前にもいる!」
「……何?」
その言葉に、僕は前方を見る。森の出口へ続く道。
そこに――何体ものコボルトが立っていた。
「…………」
後ろからも、足音が迫ってくる。前にも。後ろにも。逃げ道が、塞がれていた。
僕はゆっくりと右手を握る。黒い霧が、指の間から僅かに漏れた。
「……囲まれた」
誰かが震える声で呟いた。僕は周囲を見渡す。地形。木々。斜面。
そして――少し離れた場所にある、細い獣道。
「……あっちへ行く」
僕は、誰も予想していなかった方向へ走り出した。
木々の間に伸びる、細い獣道へ――。




