死んだはずの男が、席につく夜
あれから数日、「ひさご」はいつも通りの顔をしていた。
熊吉は相変わらず同じ席で酒を飲み、修は仕事帰りに油の匂いを連れてやってくる。魚屋の夫婦は夫婦喧嘩をしながらも同じ皿をつつき、サエは変わらぬ手つきで包丁を動かす。
けれど、何かが変わっていた。
ほんのわずか、誰も口にしない違和感。
修は気づいていた。
——女将、時々、外見てる。
暖簾の向こう、路地の暗がり。
誰かを待つように。
ある晩、修は思い切って聞いた。
「女将ってさ、港、好きなの?」
サエは一瞬だけ手を止めたが、すぐに笑った。
「どうして?」
「いや、なんとなく。よく外見てるから」
少しの沈黙。
「……好きかどうかは、よく分からないね」
サエはそう言って、鍋の蓋を閉めた。
「ただ、帰る場所がここしかなかっただけさ」
その言葉は軽く投げられたようで、どこか重かった。
その夜、閉店後。
珍しく熊吉が残っていた。
「……来てるんだろ」
サエが背を向けたまま言う。
熊吉はため息をついた。
「気づいてたか」
「気づかないわけないだろう」
戸の外に、人の気配。
ゆっくりと引き戸が開いた。
この前来た濡れた背広のあの男——ではない。
もっと静かな気配の男だった。
年の頃は五十前後。髪は白くなりかけ、顔には深い影がある。
だが、その目だけは妙に若い。
修もまだ帰らず、奥の席で息を潜めていた。
「……ずいぶん、長いことかかったな」
サエが言う。
男は苦笑した。
「死んだことにされると、色々面倒でね」
熊吉は立ち上がり、ゆっくりとその男に近づく。
「てめえ……」
だが拳は上がらなかった。
「……生きてやがったのか」
「なんとかね」
男は店の中を見回した。
「いい店だ」
サエは何も答えない。
「……あの夜のこと、覚えてるか」
男が静かに言う。
熊吉が顔を歪める。
「忘れるわけねえだろ」
男は穏やかに熊吉に問いかけた。
「あんた、俺を突き落としたと思ってるだろ」
「違うのか」
男は首を横に振った。
「違う」
静寂。
「自分で飛び込んだんだよ」
修が息を呑む。
熊吉の眉が寄る。
「……ふざけんな」
「本当だ。借金と、トラブルと、逃げ場がなかった。海に落ちれば、全部終わると思った」
「じゃあなんで生きてる」
「死ねなかったんだよ」
男は少しだけ笑った。
「情けない話だろ」
サエが初めて口を開いた。
「……あんた、見てたんだよ」
男はゆっくり頷く。
「全部な」
「だったら、なんで今さら戻ってきた」
熊吉の声は低い。
男は少しだけ考えてから答えた。
「確認したかった」
「何をだ」
「俺がいなくなったあと、あの船の人間がどうなったか」
そして、サエを見る。
「……あんたが、どう生きたか」
長い沈黙。
サエは静かに息を吐いた。
「見ての通りだよ」
「……ああ」
男は小さく頷く。
「ちゃんと生きてる」
その言葉は、不思議と優しかった。
熊吉が低く笑う。
「なんだ、くだらねえ理由で戻ってきやがって」
「悪いか」
「悪くねえよ」
少しの間。
「ただな」
熊吉は男の肩を軽く叩いた。
「次は逃げんな」
男は目を伏せた。
「……ああ」
その時、奥から物音がした。
三人の視線が向く。
修が、固まったまま立っていた。
「あ……その……」
気まずい沈黙。
だがサエは、ふっと笑った。
「聞いちまったかい」
修はうなずくしかない。
「……なんか、すごい話で」
「そうでもないさ」
サエは鍋を火にかけ直した。
「どこにでもある話だよ」
修は首を振る。
「いや、ないでしょ普通」
熊吉が笑う。
「お前が知らねえだけだ」
男も、少しだけ笑った。
その空気は、どこか軽くなっていた。
やがて、サエが言った。
「腹減ってるだろ」
男は少し驚いた顔をする。
「……いいのか」
「客は客だ」
サエは皿を出した。
「名前、なんて呼べばいい」
男は少し考えてから言った。
「……なんでもいい」
サエは一瞬だけ目を細めた。
「じゃあ、“ただいま”でいいかい?」
男は、初めてはっきりと笑った。
「……ああ」
湯気が立ち上る。
外では、また波の音がしている。
港町の夜は、やっぱり静かだ。
けれど「ひさご」には、その夜から——
もう一つ、帰ってくる場所を持った男が増えたのだった。
そして修は、後になって気づく。
この店で一番大きな秘密は、
“誰かが罪を隠していること”ではなく——
“誰も、その罪をもう責めていないこと”だった。




