表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

死んだはずの男が、席につく夜

あれから数日、「ひさご」はいつも通りの顔をしていた。


熊吉は相変わらず同じ席で酒を飲み、修は仕事帰りに油の匂いを連れてやってくる。魚屋の夫婦は夫婦喧嘩をしながらも同じ皿をつつき、サエは変わらぬ手つきで包丁を動かす。


けれど、何かが変わっていた。


ほんのわずか、誰も口にしない違和感。


修は気づいていた。


——女将、時々、外見てる。


暖簾の向こう、路地の暗がり。


誰かを待つように。


ある晩、修は思い切って聞いた。


「女将ってさ、港、好きなの?」


サエは一瞬だけ手を止めたが、すぐに笑った。


「どうして?」


「いや、なんとなく。よく外見てるから」


少しの沈黙。


「……好きかどうかは、よく分からないね」


サエはそう言って、鍋の蓋を閉めた。


「ただ、帰る場所がここしかなかっただけさ」


その言葉は軽く投げられたようで、どこか重かった。


その夜、閉店後。


珍しく熊吉が残っていた。


「……来てるんだろ」


サエが背を向けたまま言う。


熊吉はため息をついた。


「気づいてたか」


「気づかないわけないだろう」


戸の外に、人の気配。


ゆっくりと引き戸が開いた。


この前来た濡れた背広のあの男——ではない。


もっと静かな気配の男だった。


年の頃は五十前後。髪は白くなりかけ、顔には深い影がある。


だが、その目だけは妙に若い。


修もまだ帰らず、奥の席で息を潜めていた。


「……ずいぶん、長いことかかったな」


サエが言う。


男は苦笑した。


「死んだことにされると、色々面倒でね」


熊吉は立ち上がり、ゆっくりとその男に近づく。


「てめえ……」


だが拳は上がらなかった。


「……生きてやがったのか」


「なんとかね」


男は店の中を見回した。


「いい店だ」


サエは何も答えない。


「……あの夜のこと、覚えてるか」


男が静かに言う。


熊吉が顔を歪める。


「忘れるわけねえだろ」


男は穏やかに熊吉に問いかけた。

「あんた、俺を突き落としたと思ってるだろ」


「違うのか」


男は首を横に振った。


「違う」


静寂。


「自分で飛び込んだんだよ」


修が息を呑む。


熊吉の眉が寄る。


「……ふざけんな」


「本当だ。借金と、トラブルと、逃げ場がなかった。海に落ちれば、全部終わると思った」


「じゃあなんで生きてる」


「死ねなかったんだよ」


男は少しだけ笑った。


「情けない話だろ」


サエが初めて口を開いた。


「……あんた、見てたんだよ」


男はゆっくり頷く。


「全部な」


「だったら、なんで今さら戻ってきた」


熊吉の声は低い。


男は少しだけ考えてから答えた。


「確認したかった」


「何をだ」


「俺がいなくなったあと、あの船の人間がどうなったか」


そして、サエを見る。


「……あんたが、どう生きたか」


長い沈黙。


サエは静かに息を吐いた。


「見ての通りだよ」


「……ああ」


男は小さく頷く。


「ちゃんと生きてる」


その言葉は、不思議と優しかった。


熊吉が低く笑う。


「なんだ、くだらねえ理由で戻ってきやがって」


「悪いか」


「悪くねえよ」


少しの間。


「ただな」


熊吉は男の肩を軽く叩いた。


「次は逃げんな」


男は目を伏せた。


「……ああ」


その時、奥から物音がした。


三人の視線が向く。


修が、固まったまま立っていた。


「あ……その……」


気まずい沈黙。


だがサエは、ふっと笑った。


「聞いちまったかい」


修はうなずくしかない。


「……なんか、すごい話で」


「そうでもないさ」


サエは鍋を火にかけ直した。


「どこにでもある話だよ」


修は首を振る。


「いや、ないでしょ普通」


熊吉が笑う。


「お前が知らねえだけだ」


男も、少しだけ笑った。


その空気は、どこか軽くなっていた。


やがて、サエが言った。


「腹減ってるだろ」


男は少し驚いた顔をする。


「……いいのか」


「客は客だ」


サエは皿を出した。


「名前、なんて呼べばいい」


男は少し考えてから言った。


「……なんでもいい」


サエは一瞬だけ目を細めた。


「じゃあ、“ただいま”でいいかい?」


男は、初めてはっきりと笑った。


「……ああ」


湯気が立ち上る。


外では、また波の音がしている。


港町の夜は、やっぱり静かだ。


けれど「ひさご」には、その夜から——


もう一つ、帰ってくる場所を持った男が増えたのだった。


そして修は、後になって気づく。


この店で一番大きな秘密は、


“誰かが罪を隠していること”ではなく——


“誰も、その罪をもう責めていないこと”だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ