帰ってきてもいい場所
修がそれを知ったのは、さらにひと月ほど経った頃だった。
季節は少し進み、夜風に冷たさが混じり始めていた。
「女将、あの人——“ただいま”さんってさ」
「ああ」
「あの人、結局何者なの?」
サエはすぐには答えなかった。
出汁をすくい、味を確かめ、火を弱める。
その一連の動作が終わってから、ぽつりと言った。
「……あの人ね」
少しだけ、遠くを見る目になる。
「この店の“はじまり”なんだよ」
修は眉をひそめる。
「はじまり?」
奥で熊吉が鼻を鳴らした。
「気づいてなかったのか、坊主」
「え、何が?」
熊吉は盃を傾けながら言う。
「あの店、元はあいつのもんだ」
修は一瞬、言葉を失った。
「……え?」
サエは静かに頷いた。
「昔、この場所には違う名前の店があった。小さな飲み屋でね」
「それが、あの人の店……?」
「そう」
「じゃあ女将は——」
「雇われてた」
あまりにあっさりした答えだった。
修の頭の中で、点が線になる。
「あの船に乗ってたって……」
「うん。あの人が、私を乗せた」
熊吉が付け加える。
「訳ありのガキ拾ってな。面倒見てたんだよ」
サエは少しだけ笑った。
「店の手伝いしながら、港で暮らしてた」
修は息を呑む。
「じゃあ……あの夜に——」
「全部、途切れた」
サエの声は静かだった。
「店も、人も、名前も」
しばらく沈黙が流れる。
「……で、あの人は死んだことになって」
「私はここに残った」
サエは淡々と続ける。
「店を畳むつもりだった。でも——」
少しだけ、言葉が止まる。
「ここが、私の“帰る場所”になってた」
だから、名前を変えて、暖簾をかけ直した。
それが「ひさご」だった。
修はゆっくりと理解する。
「……じゃあ、あの人は」
「元の店主で、恩人で」
熊吉が言う。
「そして、全部置いて逃げた男だ」
ぴしり、と空気が張る。
だがサエは否定しなかった。
「そうだね」
その代わり、こう続けた。
「でもね」
少しだけ柔らかく笑う。
「帰ってきた」
それだけだった。
その夜、閉店後。
“ただいま”は一人でカウンターに座っていた。
店の中を、懐かしむように見回す。
「……ずいぶん、変えたな」
「変わるさ」
サエは言う。
「あんたがいない間にね」
男は頷く。
「文句は言わない」
少しの間。
「……返してほしいとも、言わない」
サエは何も答えない。
「ただ——」
男はゆっくりと顔を上げる。
「ここに、いてもいいか」
その問いは、昔の主人としてではなく、
どこにも居場所をなくした一人の男としてのものだった。
サエはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「席は空いてるよ」
それは、許しでも、赦免でもなかった。
ただの、いつもの言葉。
けれど、それで十分だった。
男は小さく息を吐き、
「……じゃあ、客として」
と笑った。
暖簾の外では、潮の匂いがする。
港町の小さな居酒屋。
そこには今日も、
過去を抱えたまま、それでも戻ってくる人間たちがいる。
そしてサエは知っている。
——この店の本当の名前は、
人の名前でも、看板でもなく、
「帰ってきてもいい場所」だということを。




