暖簾の向こうで、誰かが帰ってくる
港町の夜は、思ったよりも静かだ。
昼間は荷揚げの掛け声やクレーンの軋む音で騒がしい埠頭も、日が落ちると波の音だけがやけに大きくなる。そんな岸壁から一本入った細い路地に、「ひさご」という小さな居酒屋があった。
暖簾は色あせ、引き戸は少し傾いている。だが、ここには決まった時間に、決まった顔ぶれが集まってくる。
「いらっしゃい」
女将のサエは、四十を少し過ぎた頃合いで、いつも同じ紺の割烹着を着ている。声は柔らかいが、目はどこか遠くを見ているようでもあった。
一番奥の席には、元船乗りの熊吉が陣取っている。
「今日も波ァ静かだな」
誰に言うでもなく、湯気の立つ燗酒を見つめながら呟くのが癖だった。腕には古い刺青、顔には深い皺。それでも、魚の話になると子どものように目を輝かせる。
カウンターには、町工場で働く若い修。
「女将、今日は給料日だからさ、ちょっと奮発していい?」
「じゃあ、鯖の味噌煮にするかい。骨まで柔らかいよ」
「それそれ、それがいい」
修はこの店に来るようになってまだ半年だが、すっかり常連の顔をしている。最初は無口だったが、今では熊吉と軽口を叩くほどになっていた。
「若ぇの、また油で手ぇ真っ黒にしてきたな」
「しょうがないでしょ、仕事なんだから」
「いいねえ、そうやって働いて飲む酒が一番うまい」
そんなやり取りを、サエは黙って聞きながら、包丁を動かす。トントンと刻まれる音が、この店のリズムだった。
夜が更けるにつれ、客は少しずつ増える。魚屋の夫婦、郵便配達の男、たまに港に寄るトラック運転手。誰もが何かしらを抱えてここに来て、酒と肴と少しの言葉を置いて帰っていく。
ある雨の夜、見慣れない男が戸を開けた。
「……やってるかい」
低い声だった。背広は濡れ、古びた鞄を抱えている。
「どうぞ」
サエは一瞬だけ手を止めたが、すぐにいつもの調子で迎え入れた。
男はカウンターの端に座り、酒を頼むでもなく、店内を見回した。その視線が、熊吉の腕の刺青で止まる。
「……あんた、昔、第三旭丸に乗ってなかったか」
熊吉の手が止まった。
「……なんだ、懐かしい名前出しやがるな」
「やっぱりそうか」
男は少しだけ笑ったが、その笑みはどこかぎこちなかった。
店の空気が、ほんのわずかに変わる。
修は箸を止め、サエは何も言わずに徳利を差し出した。
「飲みな。話はそれからだ」
熊吉がそう言うと、男は一口だけ酒を飲んだ。
「……あの船で、一人いなくなった男がいた」
雨音が強くなる。
「港に帰る前に、海に落ちたって話になってる。でも——」
男はゆっくりと顔を上げた。
「本当は、落ちたんじゃない。落とされたんだ」
誰も声を出さなかった。
熊吉は黙って酒を飲み干す。
「で、何が言いてえ」
「その時、船にいた女がいた。乗組員じゃない。密航みたいな形で乗せてた」
その瞬間、サエの包丁の音が止まった。
「……その女が、全部見てた」
静寂が、店を満たす。
男はサエの方を見た。
「久しぶりだな」
修は思わず振り返る。
熊吉は目を閉じたまま、深く息を吐いた。
サエはゆっくりと顔を上げる。
その表情は、いつもの穏やかな女将のものではなかった。
「……あの時の子が、まだ生きてるとは思わなかったよ」
男は苦く笑う。
「俺もな。あんたがここで、こんな顔して店やってるなんて」
修は何も理解できずにいる。
「女将……?」
サエは少しだけ微笑んだ。
「昔話さ。ここに来る前の」
熊吉が口を開く。
「……あの晩、あいつは酒に溺れて足滑らせた。それだけの話だ」
「違うな」
男は即座に言った。
「揉み合ってた。あんたと」
空気が凍る。
しかしサエは、静かに徳利を持ち上げた。
「もういいだろう」
その声は、不思議とやわらかかった。
「ここは、そういう話をする場所じゃない」
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうだな」
そして、グラスの酒を飲み干す。
「悪かった。空気を壊した」
「壊れてなんかないよ」
サエは笑った。
「みんな、いろいろ抱えてる。それでいい」
雨はいつの間にか弱くなっていた。
男は席を立ち、鞄を持つ。
「また来てもいいか」
「もちろん」
サエは頷いた。
戸が閉まると、店にいつもの静けさが戻る。
修は恐る恐る口を開いた。
「……今の話って」
熊吉が先に答えた。
「昔の話だ。海の上じゃ、いろんなことが起きる」
サエは何も言わず、味噌煮を差し出す。
「冷めるよ」
修は黙って箸を取った。
味は、いつもと同じだった。
けれどその夜から、「ひさご」に流れる時間は、ほんの少しだけ深くなった。
そして誰も知らない。
あの夜、船から消えた男が——
本当は、まだ生きていることを。
そして、その男が時折、店の前を通り過ぎては、暖簾に手をかけずに去っていくことを。
ただ一人、サエだけが、それに気づいている。




