第八十三話 マーキング
それが三十分になると同時に、ひと筋の光が、空に向かって打ち上がった。
黒いキャンバスに、大輪の花が咲く。煌びやかな火の粉が、すぐそこまで迫ってきているようにも見えて、思わず仰け反ってしまいそうになる。
遅れて、大きな爆音が、鼓膜を打った。音の衝撃が、体の芯にずんっと響く。
「たまやー!」
しずくが、花火に向かって叫ぶ。
「ほら、純太郎も!」
「え?」
「せっかく誰もいないんだし、叫んでおいたほうがお得じゃない?」
「お得……?」
お得かどうかはさておき、しずくから期待の眼差しを向けられておきながら、叫ばない理由はない。俺は思い切って、大きく息を吸った。
「た、たまやー!」
「そうそう! いい感じ!」
久しぶりに大きな声を出して、思わずせき込みそうになった。やはり、慣れないことはするもんじゃない。ただ、とても気持ちが良かった。
「……こんなに充実した夏は、初めてかもなぁ」
花火を眺めながら、しずくはそう言った。
「あ、でも、欲を言えばもう少し純太郎と一緒にいたかったな。ちょっと仕事多すぎ?」
「そうだな。少し寂しかった」
「えー⁉ ご、ごめんって!」
慌てるしずくを見て、にやりと笑う。
「あっ! まさか!」
「ごめんごめん。冗談だよ」
「くっ……純太郎にからかわれる日が来るなんて……!」
しずくが、心底悔しそうにしている。普段、からかわれてばかりだからか、しずくの悔しそうな姿を見ることができて、なんだか嬉しい。
「ずっと一緒にいられなくたって、しずくと俺は、ちゃんと繋がってる。だから、寂しくはないよ」
花火の音に負けないよう、少し声を張って、そう言った。
しずくは照れ臭そうに笑って、俺の肩にぐりぐりと頭を押しつけてくる。
「えっと、何してるんだ?」
「マーキングだよ。もっと私を身近に感じられるように」
「……ありがとう?」
――――マーキングって、そういうものだったっけ……?
いつかと同じ、制汗剤の香りが、鼻腔をくすぐった。
参ったな、これでは、花火にとても集中できない。
「また来年も、再来年も、そのまた来年も、おじいちゃんおばあちゃんになっても……こうやって、一緒にいてくれる?」
「……うん」
しずくは、幸せそうに笑って、俺の手を握った。
その手を握り返し、瞳を見つめる。花火の光に照らされたしずくは、花火なんて目じゃないくらい、美しく、そして尊い。
気づけば、俺は彼女の頬に手を伸ばしていた。ほんのりと温かい頬の感触に、心臓の鼓動が加速する。あまりにもうるさくて、もはや花火の音など、聞こえなくなっていた。
しずくは、目を細めながら、俺の手に頬を擦りつける。そして、俺たちは自然と、瞳を合わせた。
気づいたときには、唇が触れ合っていた。
温かいのか、冷たいのか、それすら分からず、ただ彼女の存在を感じながら、時間が過ぎていく。そして、特にきっかけがあったわけでもなく、俺たちはそっと離れた。
「……しちゃったね」
言葉が出てこなくて、ひとつ頷く。遅れて、痛いくらいに心臓が暴れ出した。
まさか、あの神坂しずくと、こんなことになるなんて。少し前の俺に言っても、妄言としか思わないだろう。新手の詐欺とすら疑うかもしれない。
今だって、どこか信じられない俺がいた。それでも、俺の隣に彼女がいるのは、夢でも幻でもなく、ただの現実でしかないのだ。
嬉しくて、幸せで、しずくの顔から、目が逸らせなくなっていた。
「あのさ、純太郎……その……もう一回、いいかな?」
しずくの潤んだ視線が、俺を射抜く。断る理由など、ひとつもなかった。
――――気づけば、花火大会は終わっていて、会場から少しずつ人が減り始めていた。
手を繋いでぼーっとしていた俺たちは、顔を見合わせ、羞恥で頬を赤らめる。
「なんか……全然花火見なかったね」
「そう、だな。見てる暇、なかったし」
「だね……」
こんないい場所を陣取っておきながら、ほとんど花火を見ていないなんて、なんだか悪いことをしている気分になった。
ただ、そのことに優越感を覚えている俺も、確かに存在していて――――。
「もう少ししたら、私たちも帰ろっか」
「ああ、そうしよう。浴衣も、真宮先生に返さなきゃいけないし……」
今から喫茶メロウに戻るのは、少し憂鬱だった。疲れているからとか、移動がどうとか、そういう話ではなく、きっとあの二人は、俺たちが浮ついていることに、すぐ気づいてしまう。
それがなんとなく気恥ずかしくて、だからといって、戻らないわけにもいかない。
「純太郎、平常心だよ、平常心」
「あ、ああ……分かってる」
「あはは! そんなんじゃ、絶対なんかあったって気づかれるって!」
俺が緊張し始めたのを見て、しずくはお腹を押さえて笑い始めた。




