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第七十九話 夢の話

「これが……デザインが一番よくて、味も、めちゃくちゃ美味しかった、です」


 しずくが言った通り、とにかくストレートな言葉をぶつけた。正確には、そんな言葉しか浮かんでこなかっただけだが。

 歌原さんはにっこりと優しく微笑んで、俺が指したマシンを、じっくりと眺めた。


「うん、このお店にも合いそう。私もこれが一番好きだなぁ」

「で、でも、マスターの好みで選んだほうが……」

「いいのいいの。エスプレッソとか、ラテ系は、純くんに任せようと思ってるし」


――――なんだって?


 今、あっさりとんでもないことを言われた気がする。

 思考を整理するよりも先に、歌原さんが話し出す。


「今からすっごく恥ずかしい話をするんだけど……笑わないで聞いてくれる?」

「は……はい」


 先ほど言われたことの衝撃で、ろくに頭は回っていなかったが、かろうじて頷いた。


「実は私、エスプレッソを淹れるのが、笑っちゃうくらい苦手なの」


 歌原さんは、驚くほどしょぼくれた顔になって、背中を丸めた。こんなに小さくなった彼女を見たのは、これが初めてだった。


「知り合いが使わせてくれたことがあったんだけどね、あの……タンピングってやつ? あれが全然上手くいかなくてさぁ……」

「ああ……押し込む力が弱いと、びちゃびちゃになったりしますよね……」


 タンピングは、粉を押し固めて、粉に圧力が均一に掛かるようにするための工程だ。

 それが不十分だと、お湯の抜けが速すぎて、勢い余って周囲に飛び散ることがある。映像で見たことがあるが、真っ黒なコーヒーが周辺を汚していく様は、あとの掃除を考えると、ぞっとするものがあった。


「あ、えっと……違くてぇ……」

「え?」

「ち、力が強すぎて……お湯が全然抜けなくて……」


 歌原さんの声が、どんどんか細くなっていく。

 タンピングが強すぎると、今度はお湯が抜ける隙間がなくなって、場合によってはまったくエスプレッソが垂れてこないなんてことも起きる。それに、圧力ばかりかかって、内部構造に負荷が蓄積し、いずれ故障の原因に――――なんてこともあり得る。


「加減すると、今度はびちゃびちゃになっちゃってぇ……と、とにかく、調節が上手くいかないんだよぉ……」


 歌原さんは、半べそをかいていた。そんなに恥ずかしがることはないのに。

 だが、今まで喫茶メロウにエスプレッソマシンがなかった理由が、ようやく分かった。


「それなのに、エスプレッソマシンを買おうって言ってくれたんですか?」

「うん。純くんなら、多分使いこなせるって思ったんだよねぇ」

「そんな、まだ一回もやったことないのに……」

「純くんってさ、コーヒー大好きでしょ」

「はい、もちろん」

「私はね、ドリップコーヒー(・・・・・・・・)が好き」


 そう言いながら、歌原さんは目を細めた。

 その表情を見て、はっとした。確かに俺は、コーヒーが好きだ。

 ドリップコーヒーも、コールドブリューも、サイフォンも、エスプレッソも、ラテも、アメリカーノも、他のどんな淹れ方でも、ティラミスのようなお菓子でも、全部好きだ。


「私ね、おじいちゃんのコーヒーがほんとに大好きで、最初は同じ味が出せるように頑張ってたんだぁ。でもね? ずっとドリップの練習ばかりしてたから、それ以外のコーヒーのことは、全然分からないままなの。純くんの前ではかっこつけたかったから、あんまり話さないようにしてたんだよ」


――――まったく気づかなかった。


 歌原さんも、俺と同じように、コーヒーそのものが好きなのだと思い込んでいた。


「多分、これから純くんは、色んな人に出会って、色んなコーヒーに出会って、色んな技術に出合って……そしていつか、私とは違う道に行くんじゃないかなぁ。私は、そのお手伝いをしてあげたい。だから、エスプレッソマシンは、純くんに使ってほしいの」

「……本当に、いいんですか?」

「うんっ! でも、ちゃーんと練習してね? お客さんに出せるかどうかは、私が判断するから」


 歌原さんは、丸まっていた背筋を伸ばし、ぐんと胸を張った。

 俺は深く頭を下げてから、改めて店内を見回した。

 歌原さんに言われて、なんとなくだけど、自分の道というものが見えた気がした。

 勇気を振り絞り、俺は彼女に向かって告げる。


「マスター」

「んー?」

「俺――――バリスタになりたいです」


 歌原さんは、一瞬目を見開いて、それから「うん」と頷いた。


◇◆◇


――――午後六時。

 仕事終わりのしずくが、喫茶メロウにやってきた。


「バリスタを目指す⁉」


 俺の夢を聞いたしずくは、目を見開いて、テーブルに身を乗り出した。


「うん。挑戦してみたくなったんだ」


 バリスタとは、広義的に言うと、コーヒーの専門知識を持ち、美味しいコーヒーを淹れるための技術を会得している者を指す。基本は、エスプレッソやラテを提供できる者がそう呼ばれることが多いが、ドリップでもなんでも、提供方法に具体的な基準はない。

 そもそも、バリスタには国家資格が存在しないため、名乗ろうと思えば誰でも名乗れてしまう。ただ、民間資格は存在するため、俺が最初に目指すとすれば、それを取得することになるだろう。


「じゃあ、高校を卒業したら、専門学校に行くってこと?」

「いや、バイトを増やそうかなって思ってる。メロウもこのまま続けさせてもらいながら、空いた時間は別のカフェで働くって感じで」


 軽く調べたところ、バリスタの民間資格を取るには、店舗でコーヒーを提供した経験が必要らしい。喫茶メロウだけでも、条件を満たすことは可能だが、経験はひとつでも多いほうがいいと思った。


「ひとり暮らしもしたいしな。勉強だけじゃなくて、お金も稼ぎたいんだ」

「そっか……じゃあ、私とお揃いだね」


 しずくは、嬉しそうに笑った。


「しずくも、大学は行かないのか?」

「うん、そのつもり。仕事に専念したいから」


 そう言って、しずくはアイスコーヒーを、一気に半分ほど飲んだ。


「なんだかんだ言って、やっぱり好きなんだよね、モデルの仕事」

「……そっか」

「ま、ちょっと不安だけどね!」


 しずくは、苦笑を浮かべた。

 忙しい日々を送っているしずくですら、将来への不安を抱えている。現状、何も持たない俺には、さらに厳しい現実が待ち構えているかもしれない。

 しかし、それを恐れて諦めるという選択肢はなかった。


「でも、俺たちなら、なんとかなる気がする」

「おっ、私もちょうど、同じこと言おうとしてた」


 俺たちは、顔を見合わせる。

 俺が前向きになれるのは、しずくのおかげだ。

 彼女は、俺の恩人なのだ。これからもずっと、俺は彼女の支えであり続けたい。


「ていうかさ、二人とも働いてひとり暮らし考えてるならさ、もういっそのこと、同棲でもしちゃう?」


 しずくは再び身を乗り出すと、挑発するような視線を向けてきた。


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