第七十八話 プレゼン
翌日。案の定、昼に目覚めた俺は、スマホの画面を見て愕然とした。
なんだ、この小っ恥ずかしいメッセージは。いくら寝ぼけていたとはいえ、もう少しまともな文章は打てなかったのだろうか。顔を押さえたくなるほどの羞恥が押し寄せてくる。
唯一の救いなのは、しずくの返信。この言葉だけが、羞恥に苦しむ俺の支えになっていた。
盛大にため息をついて、俺は身支度をする。今日はこれから、歌原さんに帰ってきたことを報告しにいくつもりだ。
それとお土産を渡して、エスプレッソマシンについての相談もしたい。
そのことをしずくに話したところ、仕事が終わり次第向かうという連絡が返ってきた。
昨日の今日だが、彼女と会えるのは嬉しい。
炎天下の中、駅を目指す。旅行の疲れが残っているのか、いつもより少し気怠い。
ただ、疲れているとはいえ、家に引きこもるという選択肢はなかった。家で何もせずごろごろしているよりは、外にいるほうが好きなのだ。
神保町に到着し、普段からよく利用する書店で、コーヒーに関する本を買う。世界大会にも出場するような、有名な日本人バリスタが出した本で、ずっと気になっていた。
これで客として、長居する準備ができた。俺はできる限り日陰を歩きながら、喫茶メロウを目指す。
店の外観を見て、なんだか懐かしい気持ちになった。たった三日なのに、まるで何か月も離れてしまっていたかのような、おかしな感覚があった。それだけ、大阪旅行が濃密だったということかもしれない。
扉を開けると、涼しい風と、コーヒーの香りが俺を包み込む。
その瞬間、思わず頬が緩む。大阪で色々なお店に行ったけれど、やはり俺は、この店が一番好きだ。
「いらっしゃいませ! あれ、純くん?」
出迎えてくれた歌原さんが、俺の顔を見て驚く。
「あ、まずはおかえりだね! おかえりなさい!」
「た、ただいま」
少し照れ臭くて、ぎこちなくなってしまった。しかし、歌原さんは不思議がることなく、にこにこと嬉しそうに笑っている。
「無事に帰ってこられたみたいで何よりだよぉ。それで、今日はどうしたの? シフト入ってないよね?」
「今日は、普通にコーヒーを飲みに来たのと、お土産を渡したくて」
俺が手提げ袋を見せると、歌原さんは「まあ」と目を丸くした。
「え~! 嬉しいなぁ……純くんってば本当にいい子だねぇ」
「そ、そんなことは……」
「ほら、座って座って! 今コーヒー用意するね!」
俺をカウンター席に座らせ、歌原さんはコーヒーの準備を始める。
常に朗らかな笑みを浮かべている彼女だが、コーヒーを淹れるときは、人が変わったかと思うくらい真剣な顔つきになる。
何よりも、歌原さんのドリップは、見惚れてしまうほど美しい。細いお湯が、揺れることなくドリッパーの中央に落ちていく様は、まさに職人技。歌原さんのドリップを見るために通うお客さんがいるほどだ。
実際俺も、どれだけ見ていても、飽きる気がまったくしない。
「はい、アイスコーヒー」
「ありがとうございます」
深いコクと、きりっとした苦味。それから、チョコレートのような甘味をほのかに感じる。
やはりこれだ。このコーヒーが、俺にとっては一番美味しい。
「ふふっ、嬉しそうだね」
「はい。ずっとマスターのコーヒーが飲みたかったので」
「もうっ! 純くんったら、しずくちゃんっていう可愛い彼女がいるのに、私のことまで口説いちゃうなんて!」
歌原さんは、頬に手を当てて、体をくねくねと動かす。その姿に、俺はぎょっとする。
「ち、違いますから……!」
「ふふふっ、分かってるってぇ。でも、純くんにそう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」
そう言って、歌原さんは俺の頭を撫でた。
歌原さんの手は、少し冷たくて、とても心地がよかった。
「そうだっ! お土産ってなになに?」
歌原さんは、カウンターから回り込んできて、俺の隣に座った。
今は、お客さんも俺しかいない。しばらく話していても、問題はなさそうだ。
「チャイナの豆です。イベントで試飲させてもらったんですけど、すごく美味しくて」
「お~! うちじゃまだ仕入れたことなかったよね。ありがとう! あとで淹れてみるね!」
歌原さんは、パッケージを眺めながら、目をきらきらと輝かせた。
喜んでくれたようで良かった。コーヒー好きとはいえ、歌原さんにも好みはあるだろうから、渡す前までは少し不安だったのだ。
「そういえば……アイのお店、どうだった?」
「…………個性的なところでした」
必死に言葉を選ぶと、歌原さんはけらけらと楽しそうに笑った。
「びっくりしたでしょ? 喫茶寅まる、面白いお店だよねぇ。メイドさんは可愛いし、コーヒーもプリンも美味しいし」
「びっくりしたけど、楽しかったです。しずくも、メイド服着られて喜んでましたし」
「う~ん、私も見たかったなぁ、しずくちゃんのメイド姿……」
そう言いながら、歌原さんは上を見上げる。
確かに、メイド姿のしずくは、必見と言っていいほど可愛らしかった。思い出すだけで、顔がだらしなく緩みそうになる。
「それで、純くんは?」
「何がですか?」
「着なかったの? メイド服」
「き、着るわけないじゃないですか!」
「なーんだ、ざんねーん」
俺が慌てふためく様子を見て、歌原さんはまた笑う。相変わらず、よく笑う人だ。こういうところは、少しだけ寅松さんに似ているのかもしれない。
「絶対似合うと思ったのにぃ。アイも押しが弱いなぁ」
「結構グイグイ来てましたけど……?」
「ま、いっか! 純くんにはまた今度着てもらうとして~」
「絶対着ません……!」
こんな感じのやり取り、寅松さんともやった気がするな。
まったく、油断も隙もない人たちである。頼りになるのは、間違いないのだが。
「あ、そうだ。マスター、エスプレッソマシンのことも相談していいですか?」
「もちろん!」
一番大事なことを忘れていた。俺は鞄からパンフレットを何冊か取り出し、カウンターの上に広げる。
「わぁ、いっぱい見てきたんだねぇ。大変だったでしょ?」
「いえ、どれも個性があって、見てて楽しかったです。例えばこれなんかは――――」
俺の拙い説明を、歌原さんは真剣に聞いてくれた。
説明し終わる頃には、すっかり喉もからからになっていた。残ったアイスコーヒーを、一気にあおる。
「ありがとうねぇ、純くん。参考になったよぉ」
パンフレットをぱらぱらとめくりながら、歌原さんは言った。
「それで、純くんはどれが欲しいと思った?」
「え、えっと……」
最初からストレートに聞かれるとは思っておらず、一瞬体がフリーズする。
俺がどう言おうか迷っていると、歌原さんが助け舟を出してくれた。
「聞いた感じ、どれも性能は十分だと思う。あとは値段とか、デザインで選ぶって感じかなぁ。だから、純くんの意見が聞きたいなって」
歌原さんは、俺と目を合わせ、ふわっと笑った。
俺の心はもう決まってる。
最初に試飲させてもらったエスプレッソマシン一択だ。
何度思い浮かべても、あのマシンが、喫茶メロウの雰囲気に一番よく合う気がする。
でも、この店は歌原さんのもので――――。
「純くん、教えて?」
歌原さんは、俺が答えるまで、ずっと待ってくれるのだろう。
俺の心が決まっていることに、気づいているのだ。やはり、この人には敵わない。
俺は、恐る恐る、カタログに載っているそのマシンを指差した。




